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第7章 人の一生

第3節 葬送

2 葬送

墓穴掘り
埋葬の穴掘り役は、土葬の時代は大変な仕事だった。葬式を出す組以外の組合、講中から二人とか四人とかずつ輪番で勤めるところが多い。ロクドウとかトコバンとかアナホリとか呼び、帳簿を作っておいてきちんと順番を守って行なわれる。ただし、これから生まれる子供に死の穢れを及ぼすまいとする心遣いからか、ロクドウは妻が妊娠中の者はどこでも避けている。
荒井では、土葬の穴を掘る役目をトコバン、タイヤクさんといい、二人ずつの順回りでつとめる。死者の出た家が所属する組合以外の人にやってもらう。その家に妊婦がいると次の人に代ってもらう。妊婦のいる家の人がトコバンをするとアザッコができるといわれて嫌われている。二人ごとの帳面ができていて、前にやった家で預っている。一人だと泥がうまく上がらないので、一人が掘って一人が泥を上げる役目をする。トコバンは最初から最後まで墓地にいて、葬儀が終わると、墓の周囲の整理をし、親戚の人が仏を運んできたリヤカーを持って帰る。このリヤカーは亡くなった家で出す。棺をかつぐのは肉親が四人でやり、人が足りないときに近所の人を頼んだりする。仏様をいじることは身近かな肉親があたる。仕事が終わると風呂に入れて、着換えてもらい、座敷で浄めのご馳走をする。葬式当日の食事は豆腐汁、シラメシ、コンニャク、イモ、ヒジキと豆をあえたものである。ジャガイモやトウナスを煮て、豆腐の味噌汁に米の飯を食べたが、そのころ米の飯は正月ぐらいしか食べられないものだった。墓穴を掘るには、深い方がゴショウガイイという。初七日、四十九日などにも、トコバンは葬家に呼ばれる。昭和四十七年に葬式を出したとき、土葬であった。葬列が家を出るときには、藁のタイマツをたいて、タイヤクさんが持っていく。この火は死者を送るためのものである。二〇〇〇円のキヨメを出して御苦労賃とした。現在は火葬になっているが、そのときもトコホリが少しだけ穴を掘った。家族の者が骨箱を墓に納める。
常光別所では、床掘りのことをオヤクニンという。寺に帳面があり回り順が決っていて、二人ずつ町内でまわした。隣り組の人が頼みにいった。オヤクニンに当った人の家に妊娠している人がいる場合、後へ回してくんろといってぬかれる。穴を掘るスコップは、トモライの家のものを借りる。場所決めは施主の関係者が指示する。昔はほとんど座棺で、戦後、余裕がでてきて寝棺になった。火葬が入ってきたのは、一五年前ぐらいからで、今ではほとんど火葬になっている。床掘りは、冬の雪の降るときでも、荒縄で帯をして裸足でやった。昔は七尺以上の深さに掘った。死者が二人続くと、二度あることは三度ある。三人も続けて死人が出ると困るといって、藁人形を作っていき、脇に穴を掘って、その人形を埋けた。座棺のときは、穴の大きさはカブリ笠四人分があればよかった。それで、人の一生は二寸八分の穴から出て、二尺八寸の穴へ入るものだ、とよくいった。寝棺だとカプリ笠八人分になる。床掘りに馴れない人が掘る時は、カブリ笠を地面に置いて、広さをアンバイした。穴掘りの人が墓穴を掘ってからレンダイ(輦台)に幕を張って家へ持ってくる。家で拝んでから、輦台で担いで地蔵堂へ行く。お坊さんも一緒についていく、そこに黒と白の幕を垂らしてニワマワリ(庭回り)をした。そしてああ悲しやと拝んで埋けた。見送りにいった人は、三回ずつ土をかけて帰ってくる。その後は床掘りが墓を造る。輦台は昭和の初めに寄付されたものである。シシッコは盗られてしまった。
二ッ家では、穴掘りの役をトコバンといい、上から下までが一つになっていて、順番に回ってきた。二人でやったが、片方がたいてい経験のある人だった。出産を間近に控えているときは、トコバンをよけて後から補充した。明治三十八年生れのGさんの話、私が初めて穴掘りをしたとき、もし私一人だったらできあがらなかった。七〇歳になったNさんのお父さんと一緒にやった。座棺で四角に掘っていくと、一面がそっくり崩れて、前の座棺が腐っていて、舎利が座った姿勢のままで見えた。年寄りは、「誰さんそこちょっと寄ってろ」と声をかけて掘っていったので、私も落着いた。空気が入ると、白骨が坐ったままの姿勢でぐずぐずと崩れた。穴の中で立って、手が端へかかるほどの、六尺ぐらいの深さまで土をあげた。幅は三尺四方ぐらいのものであった。
高尾では、トコバンとかヤクニンといい、二人ずつ輪番である。トコバンは穴を掘るだけでなく、墓をきちんと整えるところまでやる。棺には左巻きにさらしを巻く。埋めるときには取ってしまい、トコバンのものとなる。西高尾では、火葬にしたのは一軒で、あとはほとんど土葬である。お棺はリヤカーに乗せて行く。トコバンは念仏の頭になる。火葬になったらほとんど仕事がなくなった。丸山組の辺りは半分以上が火葬である。トコバンは二人で墓穴を掘り、骨箱を墓に納める。丸山組の人は、お天道様と反対回りにトコバンの順番がまわってきた。回覧などは、お天道様と同じに回す。火葬のときは、二人で墓石をずらして骨壺を入れたり、後始末をする。組の男達は葬式道具として、団子の串や、葬いの食事の箸を削る。
宮内では、阿弥陀堂に墓を持つ家が、阿弥陀講を組織していた。床掘りの帳面があり、二人ずつの床掘りをした人の名を書いてある。前回床掘りをした人の次に名が載っている人が床掘りを務める。今は三人ずつ選んで、一人は予備である。出棺のときは身内が四人で担ぐ。火葬と土葬と半々ぐらいのところがある。念仏講で二人ずつトコバンが出る。講には古くからの家は入っているが、新しい家は入っていない。葬式のときには、念仏講の人達が念仏をあげてくれる。トコホリの仕事は、棺を入れる穴を掘ることである。その後、火葬になると、骨箱を墓に納めたりするのは近親者になった。トコホリの帳面があって、その順番が決っていたが、当った家に妊婦がいたり、成人した男性がいなかったりしたら次にとばす。トコホリにはちよっと良い手当を包んで、酒などをふるまった。
宮内の上では、火葬になったのは五年ほど前からである。土葬があった六年ほど前まではトコホリがあったが、現在では家族がする。
深井は今も土葬である。火葬が始ったのは、ここ二、三年前からのことである。トコホリ、ダイヤクといい、二人で墓穴を掘り、棺をかつぎ、墓に納めて土を整える。後に棺はリヤカーで運ぶようになった。昔の深井にはクルワという単位の組織があって、その中で床番帳を回した。火葬のときもトコホリは二人で墓穴を掘り、骨箱を墓に納める。
東間では、昔は四人か六人で墓穴を掘った。今は火葬になり、トコホリは二人で、骨箱を墓に納める。組合の男の仕事は団子作りで、女の仕事は料理作りである。東間ではロクドウはなくなって、必要とあれば親戚がやるというように改ったところもある。
北本宿でも土葬のころはロクドウ役があったが、一〇年前ごろから火葬になって、ロクドウ役はなくなった。二〇年前ごろまでは、葬式道具を男の人達が作ったが、今は葬儀屋に頼む。ロクドウはもとは二人で墓穴を掘る一番の大役で、キヨメの席では上座に座った。農家ではトコバンがあるが、近ごろは火葬なので、墓穴を掘ることはない。四人でやり、骨箱を墓に納める。町場ではトコバンがなくなったので、金を出して人を頼んで骨箱を墓に納めてもらう人もある。Iさんのご主人が亡くなったときは、骨箱を墓に納める仕事は墓石屋がやった。
北中丸では、トコホリといい、死人の出た組合以外の組の人が二人ずつ順番でやる。水が出る所は三人でやる。以前は堂番といった。トコホリの帳面、トコホリ帳がある。トコホリは、朝施主に掘る場所を聞き、その家のエンピを使う。よそで道具を借りると、キヨメを出した。棺は、ずっと前は桶であったらしいが、それから尺八寸角の座棺になり、今は寝棺になった。以前は組合の人が作っていたが、今は買う。棺にはサラシを巻くが、埋めるときに外し、トコホリが貰ってサラシ(褌)にした。今はサラシを用意するが、棺には巻かずトコホリにやる。埋め終ると、トコホリは風呂に入り体を淸め、大役だというので上座に座る。
下石戸上ではトコバンは二人で、阿観堂に墓を持っている家が、回り番で行なった。土葬のころはムラ全体でしていたが、現在は火葬になって、組合で二人出る。今は、焼場でのいろいろなことをやる。墓地へいって墓石などを掃除し、納骨の手伝いをする。

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