北本市の埋蔵文化財

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宮岡氷川神社前遺跡発掘調査報告

早川智明 吉川国男 石井幸雄
岩井住男 土肥 孝

5.遺物

 土器
(2)第2次調査地点出土の土器

第十三類土器(第17図9~15)
大洞糸の土器をもって一括した。もっとも、東北地方の土器そのものではなく、全て、他の安行式土器と同じ胎土をもって作られている土器であり、その文様も関東ナイズされているところに特色がある。文様の特徴から9は従来のⅢa式土器であり、雨滝式に重畳するものがある。なお、10・11・12・13は大洞C1式に、他は、大洞C2式的な要素を多分に含んでいる。色調は、黄褐色、茶褐色、褐色を呈しているが焼成は良い。
さて、以上が宮岡氷川神社前の第二次調査地点遺跡から出土した土器の概要であるが、このうち第四類、第五類土器のところで安行Ⅱ乃至Ⅲa式というあいまいな表現をとったのは、現在安行Ⅱ式と安行Ⅲa式との区分について、従来の安行Ⅲa式土器を安行Ⅲ式の範疇に入れるものと考えている人も多いからである。筆者はその点について特に、確信のある意見はないが当遺跡についてのみ考えてみると、前述したとおりこの2類の土器はごく近似する要素を持ち、双方とも晩期的と見てよいように思う。ちなみに、これらは殆んどが三層中より出土しており、層位における前後関係はみられない。しかし、この土器型式にかかる問題については、今後より吟味される必要があろう。
次に第七類土器は、従来、山内清男氏が安行Ⅲb式としたものの中で、繩文をもたないものとした中に入る。器形は、波状、平縁の深鉢形土器や浅鉢土器がみられたわけであるが、文様は、沈線による三叉状入組文、入組文、弧線文、平行の沈線文等の沈線文が施され、その文様と単列円形の刺突文や細密な沈線をあたかも、繩文の代りのように施したもの等が組合う。文様表出手法は、いたって簡単である。このような特徴をそなえる型式は、早川氏によって犢橋式(註1)と命名されたもの、鈴木氏によって姥山Ⅲ式(註2)と発表されたものに類似している。特に、当遺跡におけるこれらの類はむしろ、姥山Ⅲ式と考えた方がよいかもしれない。これらの土器の分布は、東山遺跡(註3)、下布田遺跡(註4)、石神貝塚(註5)、裏慈恩寺遺跡(註6)、真福寺遺跡(註7)、奈良瀬戸遺跡(註8)等に広くみられる。第八類及び第九類土器は、 真福寺泥炭式(註9)、堀之内BⅢ式b類(註10)等とは異なるものと理解される所謂安行ⅢC式土器である。器形は、深鉢形、浅鉢形、甕形である。文様は、幅の広い、深い沈線による自由奔放な感じの三叉状入組文に代表される外、粗大な沈線文、菱形の文様構成をするもの、弧線文が施されるもの等がある。これらの文様に米粒状の列点文が組合されるものとそうでないものとがある。このような特徴をそなえた一群の土器は杉田A類(註11)と類似性がみられる。これらの土器は、近い例では奈良瀬戸遺跡、真福寺遺跡等にみられる。さて、大洞系統の土器についてであるが、大洞C1式土器は当地城においては、 割合い多く認められるが、大洞C2式土器は、それほど見られず、近くの奈良瀬戸遺跡等から発見されている程度である。当遺跡では主として浅鉢形土器が多く入ってきている。次にこれらの土器と前述した土器との対比関係をみると、まず雨滝式は第四~五類土器に、大洞C式は第七類から第十一類に、対比される。但し、大洞C式の新旧が即ち、特橋式、姥山Ⅲ式に大洞C1式が対比され、 安行ⅢC式に大洞C2式が対比されるというように明瞭に区分してよいかどうか本遺跡の事例から判断できない。なお、近くの裏慈恩寺遺跡では前浦式土器が発見されているが、本遺跡からの発見例はない。この点も特に注目したい点である。
(岩井住男)

第17図 第二地点出土の第十~十三類土器拓本



1 早川智明氏 「所謂安行式土器について―土器型式の再編成に関する予察―」台地研究16 昭和40年
2 鈴木公雄氏 「姥山Ⅱ式土器に関する二、三の問題」史学37巻第1号 昭和39年
3 麻生優氏・川崎義雄氏 「東京都上目黒東山遺跡の晩期繩文土器」古代学研究37 昭和39年
4 川崎義雄氏 「東京都調布市下布田繩文晩期遺跡」武蔵野第45巻第2・3号 昭和41年
5 坂詰秀一氏 「埼玉県石神出上の晩期繩文土器」富士国立公園博物館研究報告第10号 昭和39年
6 庄野靖寿氏、立木新一郎氏「岩槻市裏慈恩寺遺跡発掘調査報告」埼玉考古5号 昭和42年
7 清水潤三氏・鈴木公雄氏「真福寺遺跡泥炭層出土の土器に就いて」史学39巻第2号 昭和41年
8 柳田敏司氏他「奈良瀬戸遺跡」大宮市教育委員会 昭和45年
9 註7と同じ
10 杉原荘介氏・戸沢充則氏「千葉県堀之内貝塚B地点の調査」考古学集刊3の1 昭和39年
11 杉原荘介氏・戸沢充則氏「神奈川県杉田遺跡及び桂台遺跡の研究」考古学集刊2の1 昭和39年

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