北本市の埋蔵文化財

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宮岡氷川神社前遺跡発掘調査報告

早川智明 吉川国男 石井幸雄
岩井住男 土肥 孝

6 考察

 (3)遺物について

本遺跡の遺物のなかで最も注目されるのは、何んと言っても土製耳飾である。精巧な透し彫りの優品は、おそらく国内随一の作例であろう。透し彫りの耳飾には、ほとんど全部に丹彩が施されているのに対して、無文の輪形耳飾には全然丹彩が認められないのが対照的である。透し彫りの耳飾は、おそらく祭礼や成年式、結婚式などの儀式につけた「晴れ」のものであり、透し彫りの図柄の種類は性別、既婚、未婚、年令、階級などを識別するために異なっているのであろう。透し彫りの耳飾に破損品が少ないのも大事に使用したためでもあろうし、また逆に無文の耳飾に完形品がなかったのは、破損するまで日用に使用していたことをうらがきするものであろう。
つぎに、これら土製耳飾の地点別の出土数を比較してみると、第一次調査地点23点に対して第二次調査地点は1点のみであった。第一地点が安行Ⅱ、Ⅲa式土器を主体とする時期であり、第二地点が安行ⅢC式土器を主体とする時期であることは、さきに触れているとおりである。したがって、ここの遺跡では安行Ⅱ、Ⅲa式期で多量に製作された耳飾が安行ⅢC式期になると、ほとんど製作されなくなったことが窺われる。このような傾向は他の遺跡においてもすでに指摘されているところである。
が、本遺跡においては、それが画然と数量的な差で認められたことにおいてひとつの意味がある。
また、透し彫りの耳飾に図柄の類型があり、それらのモチーフ的に図柄構成を解明することのできたこともひとつの収獲であろう。なお、本遺跡から南へ約4キロメートル離れた桶川市高井東遺跡から、第19図の1に酷似する耳飾が出上している。(註1)
耳飾のつぎに注目される土製品は、護符様土製品である。これは板状で彫り物がしてあるので、広義の土版の範疇にはいらないこともないが、小札(こざね)形をなし薄く、しかも弓なりに反っている特徴を重くみて、額につけたものであろうと考え、敢えて護符様土製品なる名称を付した。この種の土製品の出土は、きわめて稀れで、筆者の管見にふれたものとしては、浦和市馬場遺跡出土の「土版」(註2)のみである。
第一次調査地点と第二次調査地点の遺物の相違は、耳飾だけに限らずほかにもある。小形手捏土器、石剣、砥石は第一地点には出土したが、第二地点には見られなかった。逆に石製垂飾品は第二地点から2点出土したが、第一地点からは発見されなかった。
石鏃が両地点合わせて22点出土し、石斧、すり石の合計を上回っていることも特筆されなければならない。このことは横剥ぎ技法による尖頭器が多いことと共に、出土利器に見る限り、植物採取よりも狩猟活動によりウエイトがおかれたことを物語るものである。地点別の石鏃出土点数は、安行Ⅱ、Ⅲa式土器を主体としていた第一地点4点に対して、安行ⅢC式土器を主体としていた第二地点18点である。このことは、本遺跡においては、安行Ⅱ、Ⅲa式期よりも安行ⅢC式期になると、はるかに狩猟活動が活発化したことになる。大宮台地の晩期の遺跡のなかで、石鏃が多出したのは大宮市奈良瀬戸遺跡である。奈良瀬戸では、安行Ⅱ式期のものも含まれていると思われるが、120余点出土したことが報告されている。(註3)このような晩期中葉期における大宮台地の遺跡における石鏃多出の現象は、房総半島の遺跡におけるシカ・イノシシの骨がおびただしく出土する現象に符合する。千葉県山武郡姥山遺跡では、シカ・イノシツの骨があたかも骨塚を形成するかの如く存在したという。(註4)また、成田市荒海貝塚でも同様であったという。(註5)かかる晩期中葉期以後における狩猟の活撥化は、この時期における海退の進行と貝塚を形成しなくなる現象と決して無関係ではないと考えるが、本遺跡の場合は、やや内陸部に立地しているので、他の要因についても今後検討してゆきたい。
石錘は、漁携用の釣糸または漁網につけられて使われたものといわれているが、本遺跡からも2点出土した。これらは、紐かけの筋を十文字に刻んだ楕円形をしたもので、同種のものとしては、大宮市奈良瀬戸遺跡(註6)、南埼玉郡蓮田町井沼遺跡(註7)、浦和市馬場遺跡(註8)、岩槻市裏慈恩寺遺跡(註9)などで出土している。石錘の出土は、漁携とくに内陸水面漁携もさかんであったことを意味するものであろう。この場合、本遺跡の支谷の出口から出土した独木舟などとの関係も重視しなければならないであろう。
また、すり石の数が比較的多いこと、形態的に周縁部に磨潰面をもつものがあることにも関心を払う必要がある。後者の傾向は、すり石の機能上の変化によってもたらされた結果と受け取らざるを得まい。なかには楕円形をした薄いすり石も見られた。
石器のなかであまり見かけない不定形な遺物があった。第25図5は砂岩をわずかにくぼませて磨られ、表面は赤黒くなっている。これは単なる砥石の一種とするよりは、顔料や薬、毒などを溶きこねる、バレットまたは薬研のような機能をもった石製品とみた方がよいと思う。大宮市奈良瀬戸選跡からは、これと同じような機能をもったと思われる台石が出土し、朱色顔料がべったりと付着していたと報告されている。(註10)
石器の石材の種類については石器の項で説明しているが、この産出地は荒川水系のものが圧倒的に多く、利根川水系のもの(安山岩)3点とその他3点である。その他の3点のうち2点が石鏃の黒燿石で長野県和国峠付近産のものと、 1点は垂飾品の硬玉で新潟県姫川の上流域産もしくは秩父郡皆野町産のものであろう。いずれにしてもこれら石材は、産地まで行って入手したものとは限らないが、当遺跡人の交易、交渉の一端を語る資料となろう。
(吉川国男)



1 桶川市上日出谷在住岸和夫氏の保管品
2 青木義脩「馬場遺跡第二次調査報告」浦和市教育委員会 昭和46年
3 柳田敏司、早川智明、宮内正勝、塩野博、立木新一郎、川崎義雄「奈良瀬戸遺跡」大宮市教育委員会 昭和44年
4 鈴木公雄「関東地方晩期繩文文化の概観」歴史教育16巻4号所収 昭和43年
5 西村正衛「千葉県成田市荒海貝塚」古代23号所収 昭和36年
6 3と同じ
7 早川智明「井沼遺跡」埼玉県立文化会館 昭和35年
8 2と同じ
9 庄野靖寿、立木新一郎「岩槻市裏慈恩寺遺跡発掘調査報告」埼玉県立文化会館 昭和42年
10 3と同じ

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