北本の仏像
Ⅲ 結語
以上が北本市内に所在する主だった仏像の紹介である。その内容は精粗様々であり、専門仏師以外に、素人仏師の手になるものも多く見受けられた。像種別には阿弥陀、地蔵、観音といった広く一般庶民の間に信仰されたところの尊像が最も多く、それに次いでは不動、大日及び弘法、興教両祖師など真言宗に縁の深い像の造立が眼だつ。これは、深井の寿命院及び鴻巣瀧馬室の常勝寺を本寺として、市内全域に万遍なく分布する新義真言宗の寺院や小堂の存在とオーバー・ラップするもので、歴史的には、中世後半以降に於ける同教団の教線拡大に呼応した現象と見なすことが出来る。一方、市内の仏像を製作年代別に見ると、鎌倉末期1、室町時代5と中世に遡るもの極めて少なく、他は全て江戸時代、それも特に中期以降の造立にかゝるものが大半であった。すなわち、鎌倉末期の製作と思われる作品は石戸の東光寺に所蔵される銅造阿弥陀如来坐像で、もしこの像が当初から同寺に伝来して来たものであれば、境内の鎌倉期の板碑や城館跡の遺構の存在と関連して、同地区の歴史を解明する上に貴重な手懸りを与えてくれることになろう。室町時代の作品は、中丸地区では深井寿命院の木造阿弥陀如来立像と別所無量寿院の木造文殊菩薩坐像の二体、石戸地区では中井観音堂の本尊の胎内に納入されていた鋼製懸仏、及び旧双徳寺観音堂の本造千手観音坐像、旧修福寺地蔵堂の木造地蔵菩薩半跏像の三体が各々確認されるが、その内寿命院、無量寿院、旧修福寺地蔵堂の三体は、作風から推して地元出来のものではなく、何処か他の土地で造立され、のちに将来されて来たものと考えられる。いずれも一尺前後の小像であることからすれば、その最初は個人的な念持仏といったよぅな目的で造立されたものかも知れない。旧双徳寺観音堂像については、製作期に多少のずれはあるが、これとよく似た作風を示す作品が大宮市内に三体ほど確認されているので、あるいは当時この辺りで小規模な造仏活動を持続していた仏師集団の存在を想定することも可能であろう。
江戸時代の作品については、ことさら多言する必要もないが、総じて生気に乏しい、類型化した仕上りとなっているのは否めない事実である。近世に入って急速に膨張した貨幣経済体制の中で、商業化した造仏活動から生まれて来る作品が、いずれも無味乾燥な、レディー・メード的な相貌しか現わし得ないのは仕方のないことと言えよう。ただ、そぅした中で16体ほどの在銘像が確認出来たのは、各々の像の造立事情を知る上でも、また、近世の地方文書と同程度の史料的価値を有する記録としても貴重な収穫であった。その多くは、地元の一般農民の発願や寄進を受けて造立されたものであることか知られるが、時期的に見て延宝・元禄の頃を皮切りに、江戸中・後期に集中しているのは、丁度この頃から当地方の近世農村が経済的な安定期を迎えたことを暗示する、興味深い現象と思われる。