石戸蒲ザクラの今昔 Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

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Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説

1 範頼の杖が根付いたはなし

北本市は、旧中山道によって東西に大きく分けられる。東側は赤堀川に沿う水田地带と平坦な台地が広がっているが、西側の石戸宿・荒井・高尾付近は大宮台地の最高海抜地点を含み、荒川に向かって崖状をなしている。台地と荒川低地では一五メ ートルもの比高差があり、 深く浸食された谷津と相まって自然の要害といってよいであろう。このため戦国時代には石戸城が築かれ、 歴史的に重要な役割を果たしてきた場所でもある。
本書がこれから書き進めていく国指定天然記念物「石戸蒲(いしとかば)ザクラ」(第1図)は、この城跡に程近い時宗の寺、東光寺(石戸宿三丁目)に所在している。

第1図 平成19年春の石戸蒲ザクラ(東から)

さて、東光寺境内の蒲ザクラには、「源範頼(みなもとののりより)が落ちのびるときに突いてきた杖をさしたら根付いた」との言い伝えがある。明治や大正生まれの多くの地元の人たちが、「子どものころにそう聞いた」と語っている。そのほか「範頼が駒を止めて兜を掛けた桜」「範頼お手植えの桜」「家臣が植えた範頼の墓標」などとも伝えられている。このうち「杖が根付いたとだけ聞いている」と言う人が、東光寺と離れた地域の人であることは面白い現象といえよう。
ともあれ、日本には古くから「神が樹木に降臨する」「巨木には神が宿る」という考えがあった。いつしかそれらの木々には高僧や高貴な人がさした杖が根付き、 大木になったという「お話」が伴うようになる。これを「杖立て伝説」と呼んでいる。
ある集団が、疑うことなく信仰のように大切に伝えてきた「人智を越した不思議なお話」が「伝説」である。普通では信じられないような話を、本当にあったことと信じ、互いに語り合うことで厶ラや一族の結束を確かなものにしてきたのだろう。
蒲ザクラの伝説も原形は「杖立て」だったと考えられる。小高い丘に立つ、まれに見る桜の巨木と、桜の周囲に広がる中世の館跡に、源範頼という悲劇の武将が結びついたのだと思われる。範頼(第2図)と東光寺周辺との結びつきについては次の節で述べることにしたい。
なお、当地の範頼伝説が「杖立て伝説」の定義にきちんと当てはまる形で伝承されてきたわけではない。時代が進むにつれて、形が変わってきているのである。一族や地域の結束を強めるための大切な「伝説」がなぜ変化したのであろうか。

『北本のむかしばなし』より

江戸時代には多くの紀行文や地誌が書かれている。各地を巡った著者や編者などの文人の中には、古い伝説には懐疑的で、むしろ積極的に否定の根拠を示そうとする人々がいた。蒲ザクラもその洗礼を受けているのである。
例えば、東光寺に残る範頼のものと伝えられる位牌については「戒名をつけるのはもっと後の時代のこと」といったり、「本堂の額燈籠に万年山と書いてあるのは、住んでいた僧が勝手につけたもので、本当は西木山という、川越の東明寺の子院である」「墓の樹を蒲桜と呼ぶから墓の主が範頼だというのは、地元の人々のこじつけだ」という具合である。
遠路見物にやってきた文人たちが、「蒲ザクラと範頼にまつわるお話」をしたり顔で否定したとき、これを誇りに思い、大切に守ってきた地域の人々の気持ちはいかばかりであったろうか。
江戸時代末の文献には、土地の伝承として「範頼の杖が根付いた」という記述は見あたらない。当時、すでに伝説の形が変化していたのである。史実を踏まえ、土地の伝説を否定しようとする文人たちを納得させるため、合理的で説得力のあるお話に変化していった結果、「兜を掛けた」「お手植え」などという話が発生したのだろう。一方、 先に触れたように「杖立て」の話が東光寺から離れた周辺地域にこそ色濃く残っている現象は、文人たちによる外圧がなかったからと考えられる。こうして、いつしか本来の「杖立て伝説」と「合理的に説明のつくお話」が混在したまま、多彩な範頼伝説が今日まで伝えられてきたのである。
文字としては残っていないのに、今でも地元の人たちが「範頼の杖が根付いた」と言い伝えているところに、「伝説」の持つ力強さを感じることができる。

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