石戸蒲ザクラの今昔 Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説
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Ⅰ 蒲ザクラと範頼伝説
2 江戸時代の範頼伝説と蒲ザクラ
範頼伝説は、江戸時代の終わりには複数の文献に登場する。最古と思われるのは、『石部(ママ)領蒲桜之由来』(一八〇〇ころ)である。原本の存在は確認できないが、松浦静山の『甲子夜話(かつしやわ)』(一八二一~四一)に引用されており、そこには次のように書かれている。「桜の寿命はそう長くは無いものだが、しかし樹齢数百年という樹がまれには存在する。牧野左近が治める村にある桜は、武州の内に類無き古木である。『石部領蒲桜之由来』によると、東光寺は範頼の配所の旧蹟である。正治二年(一二〇〇)に四十七歳で自害したのは哀れである。範頼の墓を阿弥陀堂の側につくり、御廟に桜を植えさせ末代の印と決めたのが蒲桜である」と。
他にも瀧澤馬琴(たきざわばきん)の『玄同放言』(一八二〇)や幕府編さんの『新編武蔵風土記稿』(一八三〇)、津田大浄の『遊暦雑記』(一八一一~二九)にも絵入りで詳しく記載されている。いずれも範頼と蒲ザクラの関係について「旧記の引用」「地元での聞き書き」「史実」「考察」などを細かく記述している。これらは前後十年くらいの間に上梓されたものであるが、各所に微妙な違いがあり読み比べると面白い。
中でも『玄同放言』は見開き八頁を使って蒲ザクラと板石塔婆群の詳細な絵を挿入し秀逸である(第Ⅱ章参照)。最初に「源範頼」に関する「保曆間記」(一三四六~七〇)など古書の記事を紹介し、ついで堀ノ内まで出向いた渡邉崋山(わたなべかざん)が土地の古老から聞き取りした話を詳しく載せている。さらに馬琴自身の考察が続き、なぜ崋山が東光寺に出向いたのかが明かされる。後半では「(鎌倉幕府の正史である)『吾妻鏡』に範頼の死について記されていないのならば、堀ノ内に幽閉され、そこで最期を迎えたということも全く根拠がないこととはいえないだろう」と書いている。また、範頼の子孫たちにも触れて、範頼本人の住居跡ではないとしても子孫に関係する土地である可能性も示唆している。
植物に関心が高かった馬琴は『玄同放言』巻之二に「植物部」を著しているが、蒲ザクラのうわさを聞きながらもその詳細がわからず、同書で取り上げることが叶わなかった。その後、巻之三の巻末に「追加 源ノ範頼 東光寺蒲桜並古碑附」として掲載し、ようやく念願を果たしたのである。「植物部」七編のどれよりも頁数を費やしているところに、新進気鋭の画家を派遣した馬琴の力の入れようと、その成果に満足した様子が感じられる。
これらの文献では蒲ザクラや範頼伝説について詳しく紹介しており、概要を書き出すと次のとおりである。
第2図 源範頼画像(横浜市太寧寺蔵)
❷範頼は配流の身だった。
❸娘の亀御前が早世し、供養のために阿弥陀堂を建てた。
❹範頼は正治二年に自害した。
❺蒲ザクラは範頼のお手植えである。
❻蒲ザクラは範頼を葬ったときの墓標である。
❼桜の根元にある石塔は範頼自害の地の印である。
❽桜の根元にある石塔は範頼の墓である。
❾付近には範頼ゆかりの保養の池・慰労の森などがあった。
いずれの本も活字化されており簡単に手に入れることができる。絵と文章を味わいながら、江戸時代の人々が愛でた蒲ザクラに思いをはせるのも楽しいかもしれない。