石戸蒲ザクラの今昔 Ⅱ 蒲ザクラと渡邉崋山

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Ⅱ 蒲ザクラと渡邉崋山

1 瀧澤馬琴と渡邉崋山

瀧澤馬琴(たきざわばきん)は江戸時代の代表的な戯作者である(第12図)。多くのペンネー厶を使っており、そのひとつが「玄同(げんどう)」であった。地方の名所などにも関心を寄せ、旅行記、随筆考証類の著作も多い。
渡邉崋山(わたなべかざん)は三河国田原藩の家臣である(第13図)。田原藩が小藩だったことと、父が病身だったことによる渡邉家の極貧生活は有名である。画家であり、思想家であり、藩政家だった。
前章で触れたように、崋山は馬琴著『玄同放言(げんどうほうげん)』において、見事な蒲ザクラと板石塔婆の挿絵を描いている。『玄同放言』が完成したのは、馬琴が五十歳ごろ、崋山が二十代半ばである。馬琴はそのころ、すでに『南総里見八犬伝』を発表し、文人としての地位は不動のものとなっていた。一方の崋山は絵を描いて家計の足しにしながら、藩政改革に取り組む貧しい役人生活を送っていたのである。
崋山は十七歳で入門した絵師のもとで馬琴の息子琴嶺(きんれい)と出会う。琴嶺を通して馬琴との交流が始まり、多くの知識を得たようである。後年、馬琴について「見聞をひろめ、書籍等借用致し…」と書き記している。一方、馬琴の手紙に「崋山と申す唐絵かき、倅同門にて、事の外画執心の仁也」とある。早くから崋山の才能を認め、画家としての崋山を知己に紹介し、生活を助けていたと思われる。
『玄同放言』にはふたりの関係と崋山が石戸に出向いたいきさつを以下のように書いている。「その巨桜については伝え聞いていたが詳しく知らないので前の植物部には収めなかった。今年の夏、友人の崋山に相談すると私の為に東光寺に行って桜や古碑を写生し…」とある。
年齢も社会的地位も格段に上の馬琴が「友人」と呼んだのは、若き崋山への期待の表れだったのかもしれない。

第12図 記念切手になった滝沢馬琴

第13図 崋山肖像画(田原市蔵)


第14図 崋山の描いた江戸時代の東光寺(『玄同放言』巻之三下より)

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