石戸蒲ザクラの今昔 Ⅱ 蒲ザクラと渡邉崋山
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Ⅱ 蒲ザクラと渡邉崋山
2 崋山の通った道
『玄同放言』には、蒲ザクラまでの道筋を以下のように書き記している。「中仙道、桶川駅の西北より、西に入りて、下石戸に至り、又屋津に至り、左へ諏訪市場に至り、堀の内に至る」。これは、崋山が歩いた道筋そのものだと考えられる。なぜなら、加藤曳尾庵(かとうえいびあん)『我衣(わがころも)』(一八〇四~二五)に「崋山が語った堀ノ内までの道筋」 があり、両書の地名は完全に一致するからである。これらの地名は、桶川市と北本市に現存し、その道筋をたどることが可能である。旧中山道を北に向かって進み、桶川・北本市境あたりから左斜めに入る古道がある。下石戸に至るまでのその道は平坦で、おそらく林の中を行ったものと思われる。そこから屋津(桶川市谷津)で江川を越える。屋津に立って周囲を見回せば水田と小川とこれから向かう諏訪市場の森が見渡せたはずである。屋津(谷津)の周辺は今でも四季折々の風景がとても美しい場所である。
なお 、『我衣』には崋山が「五月二十七日の昼過ぎに桶川宿へ向かって出発した。堀ノ内で蒲ザクラや古石塔を写生し、土地の人に地元に伝わる話を聞き取って、翌日の夕方には江戸に戻っていた。なんとも健脚である」とある。
江戸時代の人は健脚だったとはいえ、あれほど精度の高い作品に仕上げるまでの写生や聞き取りが一泊二日で可能だろうか。板橋と桶川間は八里十二町である。さらに堀ノ内まで二里とあるので片道約四〇キロの行程になる。『我衣』は文化・文政期の世相、浮説などを日記風に記録したものであるという。つまり「日記そのものではない」と考えると、加藤曳尾庵による若干の脚色があったのかもしれない。また五月二十七日は、新暦なら七月初旬だろう。『玄同放言』の「今年の夏に友人の崋山が私の為に…」と、こちらは矛盾しない。
第15図 崋山の通った道筋