石戸蒲ザクラの今昔 Ⅲ 指定前後の蒲ザクラ

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Ⅲ 指定前後の蒲ザクラ

1 三好学博士の蒲ザクラ調査

十九世紀中ごろの欧米では、農地の開墾による動植物の減少、工業化による水や空気の汚染が進行していた。この現実に危機感を抱き、自然保護、天然記念物保護の思想が生まれたのである。それを日本に紹介したのは東京帝国大学教授の三好学博士 (植物学)で、その尽力により大正八年(一九一九)、わが国でも「史蹟名勝天然紀念物保護法」が成立する。

第19図 『石戸蒲櫻ノ件』綴表紙

大正十一年、天然記念物の候補となった石戸蒲ザクラの実地検分にやってきたのも三好博士だった。蒲ザクラが天然記念物の候補にあがるまでのいきさつを、はっきりと語る史料は見つかっていないが、三好博士は大正五年の春に堀ノ内を訪れ、蒲ザクラの調査を行っている。江戸時代後期から江戸の文人墨客に広く知られ、複数の書物に紹介されてきたことは、天然記念物の「候補樹リスト」に掲載される要素となったに違いない。
後に編集された『埼玉県史跡名勝天然紀念物調査報告第一集』には指定事由として「古来著明にして樹形壮観なるに由る」とある。
当時の石戸村役場の『庶務部天然紀念物石戸蒲櫻ノ件』と題された文書綴りを紐解くと、天然記念物の候補にあがり、国の審査を受け、保存会を結成し、寄付を募り、周辺の環境を整備していく一連の取り組みを詳細に知ることができる。
三好博士が実地検分に訪れた当日(四月十五日)の様子を示す記録は残念ながら見つかっていない。しかし、天然記念物指定前後の様子を報じる複数の新聞記事から、指定に対する人々の期待と関心の高さがうかがえる。

第20図 指定前の蒲ザクラ(1)

(加藤一男氏蔵)


第21図 指定前の蒲ザクラ(2)

(加藤一男氏蔵)


大正十一年三月三日
北足立郡役所発 石户村長宛
  蒲櫻に関する件
貴村に於ける標記最近の写真提出方及右記事項調査方内務大臣官房地理課長より申越候旨を以て本県より照会有之候間御承知の上本月十日午前十時迄に右写真及取調書携帯御出頭相成度右通牒す
一 近年に於ける幹枝葉の枯損の状況
一 年々の開花の多さ
一 開花期
                 以上

第22図 指定前の蒲ザクラ(3)

大正十一年四月十一日
内務省地理課長発 埼玉県知事宛

貴県北足立郡石户村の蒲桜を調査の為史蹟名勝天然紀念物調査会委員三好学氏来る十五日午前七時五〇分上野駅発桶川駅下車同地に至る予定に付貴県吏員巻尺携帯同行せしめられ候様御配慮を煩し候 追て当日若し雨天なれば翌十六日同時刻に変更の筈に候


大正9年頃の東光寺全景

大正9年頃の蒲ザクラ

第23図 石戸村青年団が作成した絵葉書

(高松成夫氏蔵)


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