石戸蒲ザクラの今昔 Ⅳ 蒲ザクラの衰えと保全
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Ⅳ 蒲ザクラの衰えと保全
1 植物学上の蒲ザクラ
大正十一年(一九二二)十月に蒲ザクラが天然記念物に指定されるにあたっては、大正五年ころから東京帝国大学の植物学者、三好学博士によってたびたび調査が行われていた。調査の結果、蒲ザクラはヤマザクラとエドヒガンとの雑種に分類され、学名「Prunus media Miyos」、 和名「カバザクラ」、 という独立した種として位置づけられたのである。むろん、学名中の「Miyos」は、三好博士自身の名字であることは言うまでもない。その成果は『植物学雑誌」第三〇巻三五八号に「Der Riesenkirschbaum VonIshido.」(独文)として発表されている。第33図 蒲ザクラの花弁
いずれにしても、三好博士が種と位置づけたカバザクラは、東光寺以外には存在せず、その意味では世界にただ一本の珍種ということができるであろう。
ところで蒲ザクラの学名は、これまでにいくつかの変遷をたどっている三好博士自身、大正五年の当初は 「Prunus mutabilis Miyoshi f.subsessilis Miyoshi」としたが、同年に「Prunus media Miyos」と変更しているのである。その八年後、京都大学の小泉源一氏は、さらに 「Prunus itosakura Siebold var.subsessilis(Miyoshi) Koidzumi」と変更しているが、「itosakura」とあるようにエドヒガン系のものと新たな理解を示したようである。当時の石戸村文書綴りには、京都帝国大学から蒲ザクラの標本を作製するためにサンプルを請求する文書と礼状が綴られている(第34・35図)。この標本は現在も同大学に保存されており、小泉氏はこの標本に基づいて分類学的な検討を行ったのであろう。
第34図 京都大の依頼文
第35図 京都大からの礼状
なお、川崎博士の調査は、蒲ザクラの分類を再検討することだけが目的ではなかった。実は、昭和五十年代の半ばころより蒲ザクラの南側の根際から孫株が伸長し、みるみる大きな株となっていったが、 この孫株と親株(古株)では花の咲く時期に若干の違いがあり、はたしてこの孫株が蒲ザクラと同株であるか否かが、にわかに問題視されてきたのである。孫株が他の桜と交雑した実生起源のものだとすれば、蒲ザクラの保護方針の根幹にかかわる重要な問題となってしまう。そこで平成四年四月、川崎博士に孫株と古株との詳細な分析を依頼することになったのである。
分析の結果、かつて三好博士が指摘した雌しべの微毛は、確かに古株に認められたが、孫株ではそれが認められないという違いが確認された。それは決定的な違いとも思われたが、川崎博士はそれを老若の差異と判断し、双方を同株であると結論づけたのである。
しかし、形態や花期に違いがある以上、その結論には疑問視される向きもあり、蒲ザクラの保護方針を検討するたびに、疑念が頭をもたげてきたのである。
そして、この難問に決着をつけるためには、遺伝子(DNA)レベルの分析が必要であるとの結論に至り、礒田洋二氏(埼玉野生植物研究所)の指導によって、平成十七年度から十八年度にかけ、茨城県日立市の(独)森林総合研究所・林木育種センターへこの分析を依頼することとなった。幸いにも分類同定研究室の協力によって分析が進められるところとなり、平成十九年五月に出された検査の結果、古株と孫株、そして後述するクローン苗は、すべて同株であることが確定したのである。
第36図 蒲ザクラ遺伝子座の波形図
(上から古株・孫株・クローン株)