石戸蒲ザクラの今昔 Ⅴ 東光寺の文化財

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Ⅴ 東光寺の文化財

コラム⑤ 蒲ザクラの板石塔婆群

服部氏の描いた貞永塔婆

(懸敏夫氏提供)

昭和四十八年までは、蒲ザクラの根の周りに板石塔婆群が林立していました。巨桜と古石塔の醸し出す独特の景観は、範頼の伝説と絡めて江戸時代から文人の注目を集めてきたのです。
この板石塔婆のうち、もっとも規模の大きな貞永二年(一二三三)銘板石塔婆は、かつては日本最古のものとされ、頭部が水平であることと、円や半円をあしらった特異なモチーフにより、板石塔婆の起源をさぐる好資料として全国の歴史研究者から関心がもたれてきました。
現在では熊谷市(旧江南町)において嘉禄三年(一二二七)銘をはじめとする第一位から三位までの板石塔婆が発見されたため、全国で四番目の古さと順位を下げましたが、他にも寛元四年(一二四六)・建長三年(一二五一)・文応元年(一二六〇)という初期資料が存在し(第V章参照)、蒲ザクラの板石塔婆群が全国に誇るものであることに変わりないのです。
このため、この板石塔婆群には山中笑氏・鳥居龍蔵氏・三輪善之助氏・稲村坦元氏・服部清道氏という初期の板石塔婆研究を牽引した研究者がこぞって調査に訪れました。
中でも昭和五年(一九三〇)に当地を訪れた服部氏は、板石塔婆群の詳細な調査を行い、私家版『造塔』に「蒲櫻板碑の研究」を発表しています。その後、服部氏は大著『板碑概説』を二十九歳の若さでまとめ、板石塔婆研究の権威者となるわけですが、この『造塔』の論文には、服部氏の優れた研究者としての慧眼をそこここに認めることができるのです。

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