北本のむかしといま Ⅱ 狩りから稲づくりへ
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Ⅱ狩りから稲づくりへ
3 米づくりのむら
墓とかしら弥生時代中期のころ、墓の周囲を四角の溝で囲む方形周溝墓( ほうけいしゅうこうぽ)という墓制が、西日本から広がり始めた。この墓制の特徴は、死者の取り扱いに区別が生まれたことである。それまで、死者の取り扱いは平等で、埋葬(まいそう)の仕方も変わらなかった。ところが、この墓では、中心に埋葬された人、周囲の溝に埋葬された人、この墓には埋葬されない人などと、埋葬場所や埋葬について区別されるようになったのである。このことは、同じむらのなかでも、人々の間に何らかの較差(こうさ)が生まれていたことを示している。そして、埋葬方法の違いによって、その較差を目に見える形で表そうという意識が芽生えてきたことを物語つている。

写真14 行田市小敷田遺跡で発見された関東地方最古の方形周溝墓
(埼玉県立埋蔵文化財センター提供)
同じような規模のものがいくつも溝を接するように集っていた方形周溝墓に、やがて単独で造られたり、他のものより大きなものが現われてくる。むらが大きくまとまっていく過程で、それを導く指導者(かしら)が必要になってきたことを物語っている。そして彼らは支配者へと変わりつつあった。このようになったとき、そこにはもう古墳(こふん)時代の足音が聞こえてくる。