北本のむかしといま Ⅱ 狩りから稲づくりへ
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Ⅱ狩りから稲づくりへ
1 赤土の文化
赤土の中に市北西部の北袋(高尾四丁目)に、「北袋の露頭(ろとう)」と呼ばれる赤土の崖(がけ)があり、大宮台地の地層の特徴がよく出ている。この赤土の正体は、富士山や浅間山の噴火で降った火山灰である。降ったばかりの火山灰は、黒くてサラサラとした砂のようなものだった。それが、長い時間がたつうちに粘土のようになり、中に含まれている鉄が酸化して、赤くなったのである。この赤土は一般に「関東ローム」といわれるが、よく見ると、いくつかの層をなしている。年代の古い順に、下から下末吉(しもすえよし)ローム層・武蔵野ローム層・立川ローム層という。最も地表に近いところには、浅間山(長野県)の火山灰が積もってできた薄い大里ローム層がある。
一番新しい立川ローム層・大里ローム層が堆積(たいせき)したのは約二万年前〜一万年前である。一方、市域に人が住み始めたのは、約二万年前といわれている。つまり、最も新しい赤土が積もった時期に、人が住み始めたことになる。
人類の歴史で、約六〇万年前〜一万年前までの時期を旧石器時代という。だから、二万年前に北本に現れたのは旧石器人といわれる人たちだった。私たちの先祖、北本の旧石器人は、浅間山の火山灰を浴(あ)び、赤土を踏みしめながら狩りをし、植物を採って毎日を暮らしていた。彼らの暮らしの跡は、赤土の中に眠っているのである。

写真12 大宮台地の歴史を語る北袋の露頭(高尾4丁目)