北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
5 範頼伝承と石戸氏
大将軍の運命しかし、平氏を滅ぼした二人の大将軍、範頼・義経のその後の運命はまことに厳しいものだった。頼朝は、寿永三年に義経が朝廷から直接、大夫尉(だゆうのじょう)という官位を受けたことを怒っていた。頼朝にしてみれば、官位などの賞は鎌倉殿である頼朝を通じて朝廷から受けるものであり、その手続きを無視して直接朝廷と結ぶことは、鎌倉政権の立場を踏みにじることなのである。平氏討滅後、頼朝は義経が東国へもどってくるのを許さなかった。義経は行き場を失い、文治(ぶんじ)元年十月、ついに頼朝打倒に踏みきった。それを待っていたかのように、頼朝は十一月、朝廷に迫って義経追討の宣旨(せんじ)を出させた。それだけにとどまらず、日本国惣追補使(ついぶし)に任命され、各国に守護(しゅご)・地頭(じとう)をおく権利まで手に入れ鎌倉政権を樹立した。

写真30 神奈川県鎌倉市にある源頼朝の墓
文治三年(一一八七)閏(うるう)四月、義経は奥州(おうしゅう)平泉(岩手県平泉町)の藤原秀衡(ひでひら)のもとに身を寄せた。奥州は平氏滅亡後に頼朝の勢力の及ばない唯一の地域であり、藤原氏は軍事力・経済力をあわせもったおそろしい相手だった。義経の奥州入りをいい機会として、頼朝は朝廷に藤原氏反逆(はんぎゃく)を訴え、奥州への圧力を強めていった。秀衡の死後、頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(やすひら)は、文治五年十月、義経を衣川館(ころもがわのたち)に襲った。義経は、妻子を殺し自害した。手をゆるめない頼朝は、同年七月藤原氏追討を決意し、自らは約一〇〇〇騎を率いて北上した。『吾妻鏡』には、そのうち一四四名の名がのっている。三番目に、三河守範頼(みかわのかみのりより)の名がある。
範頼は、平氏討滅後は鎌倉にもどり、浜の宿館といわれる邸宅に住んで、頼朝に仕(つか)えていた。しかし、範頼に対する頼朝の扱いは平家追討のときとは大きく異なり、一般の御家人と大差はなかった。『吾妻鏡』に範頼の名があらわれるのは、右に見たように、奥州藤原氏追討のための軍勢の中や、建久元年(一ー九〇)に頼朝が京に入ったときの行列の中ぐらいである。それでも、奥州行きの場合は武蔵守平賀義信・遠江守安田義定に続いて源氏一族のはじめの方にのっているが、入京行列の場合は、先陣三十一番とまったく普通の位置である。
『吾妻鏡』が、範頼について最後に取り上げているのは、建久四年八月、反逆の疑いで伊豆に流された記事である。範頼が失脚した理由は二つ考えられる。ひとつは、富士の巻狩(まきが)りの夜に起きた曽我兄弟(そがきょうだい)の仇討(あだう)ち事件に関係するものである。頼朝が討たれたとの報(しら)せ(誤報だった)が届き、嘆(なげ)き悲しむ北条政子に、範頼が「頼朝公がいなくても何の変わることもありません」といって慰めた。無事に帰ってきた頼朝は、これを知って激しく怒ったということ。もうひとつは、範頼の家臣の当麻太郎が頼朝の寝室の床下にひそんでいるところを捕らえられた事件。これらの理由で範頼は伊豆に流されたことになつている。しかし、ほんとうのところは、頼朝が自分に万一のことがあった場合、範頼が後継者になることを恐れたためと考えられる。