北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
5 範頼伝承と石戸氏
範頼登場養和(ようわ)元年(一一八一)、常陸国信太庄(ひたちのくにしのだのしょう)を本拠とし南常陸に勢力をはつていた志田義広(しだよしひろ)(源為義の子、頼朝の叔父)が、藤姓足利氏・小山氏らを誘い、源頼朝に対抗した。義広は、小山氏と合流するため、三万の軍を率いて下野国(しもつけのくに)小山(栃木県小山市)へと進軍した。小山氏では当主政光が在京中であった。嫡子(ちゃくし)朝政は、義広に同意の旨を伝えたが、ほんとうの立場は頼朝方だった。そこで朝政は、進路にあたる同国野木宮(のぎのみや)(栃木県野木宮町)で義広軍を待ち伏せし、急襲した。激戦のなか、朝政の弟宗政が鎌倉から救援に駆けつけて、小山氏が勝利した。これが野木宮合戦である。この結果、頼朝の権力は北関東に広がった。
この合戦を記録した『吾妻鏡』の記事に、「蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)も馳せ参じてきた」という文がある。頼朝の異母弟で義朝の六男、源範頼が『吾妻鏡(あずまかがみ)』に初めて登場した記述である。

写真29 源範頼画像
(横浜市太寧寺蔵)
源範頼は、遠江国(とおとうみのくに)池田宿(静岡県豊田町)の遊女を母に、同国蒲御厨(かばのみくりや)(静岡県浜松市)で生まれ、公家高倉範季(くげたかくらのりすえ)の子として育てられたという。そのため「蒲冠者」と呼ばれるようになった。前半生はほとんど分かっていない。比企郡吉見町には、範頼が幼年時代を同町の安楽寺で稚児僧(ちごそう)として過ごしたという伝承がある。
範頼は、頼朝が挙兵すると、これに駆けつけたという。そして、野木宮合戦で歴史に登場した後は、義経とともに頼朝軍の二人の大将軍の一人として、戦場を走りまわる。寿永(じゅえい)三年(一一八四)一月には、勢多口(せたぐち)(滋賀県大津市)で源(木曾)義仲(よしなか)軍に大勝し、義仲を京から追い払った。義仲は北国に逃れる途中、粟田口(あわたぐち)(滋賀県大津市)で敗死した。範頼・義経の率いる軍は、引き続き平氏追討に向かった。同年(改元して元暦げんりゃく)元年)二月には、摂津国(せっつのくに)一の谷の戦いで大手の生田(いくた)の森から攻めて、勝利をおさめた。六月、範頼は従五位下三河守(みかわのかみ)に任ぜられた。翌文治元年(一一八五)三月には、範頼・義経軍はとうとう平氏を長門国(ながとのくに)(山口県)壇の浦に追いつめ、これを破った。平氏は滅亡し、源平の合戦は終わった