北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
7 鎌倉府の支配
鎌倉府の成立尊氏が上洛(じょうらく)して以後、鎌倉では千寿王(尊氏の長男・義詮(よしあきら))を中心に、上杉憲藤(のりふじ)らが補佐する体制をとっていた。建武三年(一三三六)六月には斯波家長(しばいえなが)が初代関東管領(かんれい)(鎌倉の主を補佐する職)に任命され、関東以北に関する行政を行った。これにより「鎌倉府」が成立した。しかし、鎌倉府が安定するには、時間がかかることになる。
室町幕府内では、尊氏の執事(しつじ)・高師直(こうのもろなお)と尊氏の弟・直義(ただよし)の間で政治的な対立が高まった。貞和(じょうわ)五年(正平四年・一三四九)八月、師直は尊氏に迫って、直義を失脚させた。九月、鎌倉府の主は千寿王から尊氏の次男・基氏にかわった(これ以降、鎌倉府の主のことを「鎌倉公方(くぼう)」というようになった)。関東管領には高師冬(こうのもろふゆ)(師直の養子)、また伊豆国守護は上杉憲顕から高(こう)一族へとかわった。師直色の強い人事である。
表3 関東管領補任表(その1)
氏 名 | 官 途 名 | 在 職 期 間 | |
---|---|---|---|
斯波 家長 | 陸奥守 | 建武3. 6~ 建武4.12.23 (死亡) | |
上杉 憲顕 | 民部大輔 | 暦応1.6~暦応1.12 | |
△ | 高 師冬 | 三河守 | 〃 2. 6~康永3.閏2 |
△ | 上杉 憲顕 | 民部大輔 | 〃 3. 6~観応2.12 |
△ | 高 重茂 | 駿河守 | 康永3. 6 ~貞和5.12 |
高 師冬 | 播磨守 | 観応1.1~観応2.1.17 (死亡) | |
未 補 任 | 文和1.1~文和2. 6 | ||
畠山 国清 | 阿波守 | 〃 2. 7~康安1.11 | |
高 師有 | 陸奥守 | 貞治1.4~貞治2. 2 | |
上杉 憲顕 | 民部大輔入道 | 〃 2. 3 ~ 〃 2.12 | |
上杉 某 | 左近将監 | 〃 3.10 ~ 〃 3.12 | |
未 補 任 | 〃 4.1 ~ 〃 6. 4 |
(『市史通史編Ⅰ』P480より引用)
失脚した直義は、翌観応元年(正平五年)十月、高師直・師冬打倒のため兵を募った。これに直義派の上杉憲顕・能憲(よしのり)父子がこたえて挙兵した。これが発端となって、「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)」という一連の幕府内での武力衝突が始まった。そして、翌観応二年(正平六年)一月には、高師冬は直義派に攻められ、甲斐(かい)(山梨県)で自殺。二月には、高師直も上杉能憲に殺されてしまった。その結果、鎌倉府では、直義派の上杉憲顕が関東管領(かんれい)・武蔵国守護に任命された。しかし、これも長つづきしなかった。同年七月には、尊氏・義詮父子の反撃が始まり、直義は鎌倉にのがれた。翌観応三年(九月からは文和元年、正平七年)一月、尊氏軍は鎌倉に入り、直義は降伏した。二月に、直義は毒殺された。
幕府内での争いのすきをねらって、新田義興(よしおき)(新田義貞の長男)が上野国(こうずけのくに)で挙兵し、これに上杉憲顕が呼応した。尊氏は、河越氏・豊島氏・江戸氏らの武蔵武士をしたがえて出陣し、観応三年(正平七年)閏(うるう)二月二十日、武蔵人見原(ひとみがはら)(東京都府中市)で戦ったが敗れた。その間に、新田義興らは鎌倉に入った。同月二十八日、尊氏は再び新田軍と武蔵小手指原(所沢市)・入間河原(狭山市)で戦い、これを破って鎌倉を回復した。この戦いを武蔵野合戦という。
鎌倉にもどった尊氏は、鎌倉府の再建に着手した。子の基氏を引き続き鎌倉公方(くぼう)におき、関東管領には文和二年(正平八年・一三五三)七月に畠山国清を任命した。また、関東各国の守護には尊氏派の人物を任命した。さらに、鎌倉府に裁判の権利などを与え、広域地方行政機関とした。管轄(かんかつ)する領域は、武蔵(むさし)・相模(さがみ)・下総(しもうさ)・上総(かずさ)・安房(あわ)・常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)信濃(しなの)・甲斐(かい)・伊豆(いず)の一一か国である。これ以降の鎌倉府を、関東府という場合も多い。