北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

8 公方と管領の争い

上杉氏の関東支配
文和(ぶんわ)二年(正平八年・一三五三)七月に関東管領(かんれい)に任命された畠山国清は、南朝方に対抗するため関東武士を率いて上洛(じょうらく)したが失敗が続いた。そのうえ強圧的な態度であったので武士たちの支持を失い、康安(こうあん)元年(正平十六年・一三六ー)に職を解かれ、鎌倉公方(くぼう)・足利基氏の追討を受けた。その後任として、基氏は貞治(じょうじ)二年(正平十八年・一三六三)、旧直義党の上杉憲顕の関東管領への復帰を求めた。これに対して、旧尊氏党(尊氏は一三五八年に死去)の平一揆(へいいっき)(平氏の姓をもつ武士たちの集まり)や上杉氏の復帰で守護をやめさせられた芳賀(はが)氏・宇都宮氏は反発、挙兵したが、岩殿山の戦い(東松山市)で敗れた。この結果、関東府内での平一揆など旧尊氏党の政治的地位は低くなり、旧直義(ただよし)党の上杉氏らの地位は高まった。
図20 上杉氏略系図
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=印は養子関係
(『新編埼玉県史通史編二』P三四二より作成)


初代鎌倉公方・足利基氏の死の翌年、応安(おうあん)元年(正平二十三年・一三六八)二月、河越氏・江戸氏・高坂氏らの平一揆が、関東管領(かんれい)上杉憲顕を倒するため挙兵した(武蔵平一揆の乱)。同年六月、上杉軍は河越合戦で平一揆軍を破った。河越氏は壊滅的な打撃を受け、また高坂氏は伊豆国の守護職を解かれてしまった。逆に、上杉氏は武蔵・伊豆の守護職を獲得した。また関東管領職も、扇谷(おうぎがやつ)上杉・犬懸(いぬがけ)上杉・山内上杉・宅間上杉の四家で独占することになるなど、関東府内で最大の氏族に成長した(図20)。
表4 関東管領補任表(その2)
 氏 名官途名在職期間
 上杉憲顕(山)民部大輔入道応安1.3~応安1.9.19 (死亡)
上杉能憲(宅)兵部少輔入道〃 2. 5.17~永和2. 5
上杉朝房(犬)弾正少弼入道〃 2. 5.27~応安3.11
上杉能憲(宅)兵部少輔入道永和2. 8~永和4. 4.17 (死亡)
上杉憲春(山)刑部大輔入道 〃 3.4~康暦1.3. 7 (死亡)
 上杉憲方(山)安房入道康暦1.7~明徳2.12
 上杉朝宗(犬)中務少輔入道応永2. 3~応永12.10
 上杉憲定(山)安房入道 〃 12.10~ 〃 17. 7
 上杉氏憲(犬)右衛門佐入道 〃 17.10~ 〃 21.12
 上杉憲基(山)前安房守 〃 23.10~ 〃 25.1.4 (死亡)
 上杉憲実(山)安房守・安房入道 〃 27. 4~文安4.11
   注 関東館領が二人いた時期(△印)がある。
   (山)→山内家、(宅)→宅間家、(犬)→犬懸家

   (『市史通史編Ⅰ』P490より引用)


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