北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
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Ⅲつわものの活躍
9 岩付城主太田氏の支配
秀吉の小田原攻めと岩付落城太田氏房が岩付城主として領国の支配を行っていた一五八〇年代は、後北条氏の関東 支配が最大の範囲に広がっていた(図21)。
図21 後北条氏の支配した領図

(「市史通史編Ⅰ」P572より引用)
一方、西国では、織田信長の後を継いだ豊臣秀吉が、関白就任・九州平定など、着々と天下統一の事業を進めていた。秀吉は、天正十四年(一五八六)ごろ、北条氏政あてに「私戦停止命令」を出した。これによって北条氏と関東の諸武将との戦闘は私闘にみなされ、違反した場合は秀吉自(みずか)らがこれを追討するということになった。これは事実上、後北条氏の行動を禁止し、臣下(しんか)になれと要求しているのと同じだった。
これに対して後北条氏は、秀吉の来攻に備え、急速に臨戦体制を整えていく。例えば天正十五年に武蔵国八王子城主(東京都八王子市))の北条氏照は、「このたびの戦は、天下をかけたもの」だとして、家臣たちに軍備を命じている。また、岩付城主太田氏房も、兵糧(ひょうろう)(戦さのときの食糧)の差し出しを命じている。さらに後北条氏は領国の防衛体制を整えるため、小田原の本城をはじめ各地の支城の普請(ふしん)(工事)をさかんに行った。岩付城でも、郷内に住む男子をかり出して、普請が行われた。
天正十七年、上野国(こうずけのくに)沼田領(群馬県沼田周辺)の支配権をめぐって、後北条氏と真田氏との対立が起きた。これは秀吉の裁定により、後北条氏が三分の二、真田氏が三分のーを支配することになった。ところが、沼田城に入った後北条氏の部将猪俣邦憲(いのまたくにのり)は、突然、真田氏の支配地と認められた領内に侵入して、名胡桃城(なぐるみじょう)を奪ってしまった。これを知った秀吉は激怒し、私戦停止命令に反したとして、後北条氏の当主氏直に対して宣戦(せんせん)を布告(ふこく)した。

写真47 忍城の鳥瞰図
(埼玉県立博物館提供)
天正十八年一月、徳川家康・前田利家など各地の大名に関東出陣が命じられた。三月、秀吉自身も京を進発。早くも四月には、豊臣軍は小田原城を包囲した。これに対し後北条氏では、領国内の各地から一族・重臣を総動員して、小田原城にたてこもらせた。岩付城主太田氏房も、小田原城に入った。
一方、城主が不在となった岩付城は、重臣伊達房実の(だてふさざね)指揮のもとに城の守りをかためた。五月ー九日には、浅野長吉が率いる豊臣軍と本多忠勝らの徳川軍の連合軍二万余騎が城を包囲した。翌二十日から総攻撃が行われ、激戦の末ほぼ半日で大勢は決し、五月二十二日に岩付城は落城した。
岩付城に続いて、六月には鉢形城・八王子城も落城し、後北条氏の守っているのは小田原城と忍城だけになった。孤立した北条氏直は、七月五日に降伏した。ここに関東に君臨した後北条氏は滅び去った