北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍
社会1 >> 北本のむかしといま >> Ⅲ つわものの活躍 >>
Ⅲつわものの活躍
10 土豪深井氏・大島氏らの活躍
鴻巣七騎戦国時代(十六世紀)、市域周辺の村むらに、「鴻巣七騎(こうのすしちき)」と呼ばれる七人の在地武士(在地土豪、地侍)が土着していたようである。鴻巣という地域名は、現在の鴻巣市域ではなく、当時の領主が支配する地域の単位である「鴻巣郷(こうのすごう)」を指している。鴻巣郷は、市域の東側一帯から鴻巣市の南部までを含んでいた。
七騎の氏名と住んでいた場所は、いくつもの説があって明確ではなく、また人数も七人ではないが、伝えられているのは、次の者たちである。

写真48 大島大炊助などに帰農を命じる浅野長吉証状
(大島隆三家蔵)
①大島大炊助(おおいのすけ)(北本市宮内)
新田氏の一族で、伊豆国大島に住んでいたが、後北条氏に従って武蔵国に移り住んだという。その後、岩付太田氏の下級家臣となり、さらに後北条氏(太田氏資・北条氏政・太田氏房)に仕(つか)えた。永禄二年(一五五九)、太田資正は大島大炊助に対し、深井氏と協力して郷内の百姓を動員し、郷中の荒野を開発するようにと指示している。当時、各地の戦国大名は、年貢の増収と財政基盤の安定をねらって、地侍などに命じて、このような田畑の開発を行わせていた。永禄七年、大炊助は市域を支配していた河目資好(かわめすけよし)から、足立郡宮内村に一〇貫五〇〇文の土地を与えられている。宮内の開発地主で領主でもあった。
豊臣秀吉の軍勢に攻められて岩付城が落城してまもない天正十八年(一五九〇)六月、城攻めを指揮した浅野長吉は、大島大炊助・大島大膳亮(だいぜんのすけ)・矢辺新右衛門・矢部兵部(ひょうぶ)・小川図書(ずしょ)の五人に対し、それぞれの居住地に立ちかえって耕作をするように、と命じている(写真48)。それに従い、宮内に帰農した。
②大島大膳亮(北本市宮内)
大島大炊助の一族と考えられる。永禄七年、大炊助とともに、河目資好から、ー〇貫文の土地を与えられた。大島大炊助とともに、宮内に帰農した。

写真49 寿命院にある深井家の墓地
(深井4丁目)
③深井対馬守(つしまのかみ)景吉(北本市深井・鴻巣市宮地)
深井氏の先祖は、戦国初期に太田道灌と激しく戦った長尾景春で、景吉の祖父景行のころから鴻巣あたりに住んだという。景吉は、岩付太田氏の氏資の家臣だったが、里見氏と戦った永禄十年八月の上総国(かずさのくに)三船山(みふねやま)の戦いで氏資が戦死したため、深井に土着し、帰農したという。しかし、氏資の死後に岩付領を支配した北条氏政・太田氏房父子の文書に、家臣として名が出ているので、完全に帰農したわけではないらしい。ことに、天正十六年(一五八八)ころには、氏房のもとで糟壁(かすかべ)(春日部市)の代官や蔵奉行に相当する役職についていたことから、中堅の家臣だったことが分かる。深井の小名堀之内は、その居館跡だと伝えられている。
④加藤修理亮(しゅりのすけ)(北本市中丸)
次に出てくる小池長門守(こいけながとのかみ)の次男で、中丸に来て、母方の姓加藤氏に改姓したという。村内には、修理亮の母(小池長門守夫人)が建立したと推定されている安養院(新義真言宗)があり、小池長門守・加藤修理亮父子の墓もある。また、安養院を含む一帯は加藤氏館跡と伝えられ、現在も堀の跡らしい窪地(くぼち)などが一部残っている(図22)。
図22 現在も堀の跡らしい窪地などが見られる加藤氏館跡

(中丸8丁目)
⑤小池長門守(鴻巣市鴻巣)
天文二十年(一五五一)に、北条氏康の命により岩付城下市宿(いちじゅく)(岩槻市市宿町)から現在地に来て、原野を開き、市宿新田と名づけたという。江戸時代、鴻巣宿で本陣をつとめた旧家三太夫の先祖で、同家には氏康の虎印判状(とらいんばんじょう)が残っていた。加藤修理亮の父。
⑥矢部某(鴻巣市下谷)
天正十八年(一五九〇)六月に、大島大炊助(おおいのすけ)・大島大膳亮(だいぜんのすけ)らとともに帰農した矢辺新右衛門のことであろう。同家は中下谷村・北下谷村の旧家で、寛永の検地帳などを保存していたと伝えられるので、村役人としてこの地に定着したと考えられる。
以上が実在したか、あるいは居住した可能性の高い鴻巣七騎の者たちである。このほかに伝えられる立川石見守(いわみのかみ)(鴻巣市上谷)、河野和泉守(いずみのかみ)(鴻巣市常光)、本木某(なにがし)(桶川市加納)については、明らかにする史料が今のところ見当たらない。