北本のむかしといま Ⅲ つわものの活躍

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Ⅲつわものの活躍

3 坂東の内乱と足立氏

武蔵の治安悪化とつわものの誕生
大化以来の公地公民制が崩壊し、土地の荘園化が進むなかで、律令による中央集権 制は有名無実のものになった。各地で国の権力を代表するのは国司(こくし)であるが、九世紀以降には税の取り立て人となっていった国司に対する農民の反発は強く、全国で抵抗の動きが起きた。
その動きは坂東(関東)で目立った。九世紀以降、坂東諸国でしばしば起きた群盗(群をなした盗賊)による蜂起(ほうき)のことを「東国の乱」というが、その中心は坂東で、しかも武蔵国だったといってよい。武蔵では、九世紀半ばころから群盗が山野にあふれ、騒然とした状態になっていた。そのため、各国に一人と定められていた国検非違使(けびいし)(警察の役目をする役人)が、武蔵では郡に一人ずつ配置されたほどであった。検非違使は地元の豪族層から選ばれることが多かったが、時には彼ら自身が、国司(こくし)と国衙(こくが)(国の役所)に反抗する群盗のリーダーとなつた。国司は、これら地方の武力を国の枠組みに吸収しようとした。これが一方では地元豪族の武装化を認めることになってしまい、その武士化をうながした。
その後も関東の混乱は続いた。九世紀末、群盗のリーダーだった物部氏永(もののべうじなが)という者を追討するのに、実に一〇年もかかったという記録もある。それだけ群盗の力が強かったのだろう。また、同じ九世紀末には、東海道と東山道をまたにかけた「僦馬(しゅうば)の党」という群盗が、京へ送る物資を強奪(ごうだつ)するなど大きな被害を与えていた。しかし、この群盗は、いわゆる泥棒や強盗ではない。坂東(ばんどう)で勢力をもっている者を中心とした、国家と国衙に反対する武装集団である。これらの中から、武芸を専門とするつわもの(兵・武士) が生まれてくるのである。
初期のころのつわものの像をよくあらわしている話が、『今昔物語』(こんじゃくものがたり)(十二世紀)にのっている。箕田庄(みだのしょう)(鴻巣市箕田周辺)出身の源充(宛)(あつる)と武蔵村岡郷(熊谷市)の武者、村岡五郎良文(よしぶみ)との合戦の話である。
源充は、都から武蔵国に赴任してきた下向(げこう)貴族で、任期が終わったのち箕田郷に土着した源仕(みなもとのつこう)の子。仕は箕田郷に荘園を開きその領主となり、その子充の時代には武士化して、並ぶもののないつわものになっていた。一方、村岡五郎良文は、桓武平氏(かんむへいし)の高望王(たかもちこう)の子。後に将門(まさかど)の乱を起こした平将門の叔父にあたる。良文もまた、村岡郷をはじめ各地に私領をもつ領主で、しかも東国では有名なつわものであった。どちらも、われこそは坂東一の武者との誇りをもっていた。たまたま、二人の名誉を傷つける者がいたため、合戦によって決着をつけようということになつた。

写真23 嵯峨源氏の後裔、源仕以降代々が住んだと伝えられる蓑田館跡

(鴻巣市蓑田八幡神社)


原野に向かい合った両軍は、それぞれ五〇〇〜六〇〇人の命を惜しまない精兵(せいびょう)を従えていた。まさに戦いが始まろうとしたとき、良文が充に対し、「今日の合戦は、われわれ二人だけが馬を走らせ、全力をつくして弓を射合おうではないか」と提案した。充ももちろん賛成である。二人はそれぞれの軍勢をひかえさせ、ただ一騎で進み出て、相手を射倒そうとした。両者とも矢を放った後は、馬から落ちるはかりになって 互いの矢をよける 両側にひかえた兵士たちは はらはらとするばかりである。こうして何度か射合わせたが、勝負はつかなかった。そこで両者は、互いの力量はよく分かった、むかしからの敵でもないのでもうやめよう、といって合戦は終わった。以後は、ともに仲良くし、少しも疑うところはなかったという。人びとは、「むかしのつわものは、まさにこのようであった」と、二人をつわものの理想像として賞賛した。
この話からは、当時のつわものの性格や心意気をうかがい知ることができる。また、大勢の兵士を引連れた武者の姿もよく分かる。のちに、武士団の首長になっていくのは、こうした弓馬の術に秀(ひい)でた武者のかしらであった。

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