北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら
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Ⅳ大江戸を支えた村むら
1 徳川家康の入国
家康、関東に入る天正十八年(一五九〇)七月、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼして関東を平定し、天下統一を成し遂げた。小田原城に入った秀吉は、徳川家康に対して、北条氏が支配していた関東への国替えを命令した。国替えとは、大名の所領を移し替えることである。これによって家康の所領は、三河(みかわ)(愛知県)、遠江(とおとうみ)・駿河(するが)(静岡県)などの五か国から、その東の関東へと移され、市域を含む武蔵国も家康の支配を受けることになった。国替えの理由は、家康が小田原攻めの第一線をつとめた功績に対するものだったが、秀吉のほんとうの狙いは、実力のある家康を豊臣政権のある畿内(きない)(京・大坂を中心とする地域)からできるだけ遠ざけることにあった。

写真54 江戸幕府を開いた徳川家康
(都幾川村慈光寺蔵 埼玉県立博物館提供)
その年の八月一日、徳川家康は江戸城に入り(これを家康の関東入国または江戸御打入りという)、すぐに家臣団の知行割(ちぎょうわり)を行った。知行とは、領主が家臣に土地(知行地)を恩給し、その支配権を認めること。つまり知行割とは、だれにどれだけの知行をどこに与えるかを決めることである。家康にとっては、国替えで先祖代々が住みなれていた土地を引き払う家臣たちの落ちつき先を決めるためにも、また警戒心を強める秀吉に対する備えを固めるためにも、急いでそれを行う必要があった。
家康の知行割は、江戸を中心として同心円を描くように家臣を配置した。まず、江戸に近い地域は、蔵入地(くらいりち)(直轄地、天領ともいう)といって、徳川氏が直接治める所とした。次に、その外側の江戸から一〇里(約四〇キロメートル)というほぼー夜泊りで行けるところに、親藩(しんぱん)・譜代(ふだい)の家臣団を配置した。さらにその外側には、外様大名(とざまだいみょう)を含む上級家臣団を配置した。こうして、一万石以上では四〇氏、一万石未満三〇〇〇石以上では三〇氏が新しく領地を与えられた。そのうち、現在の埼玉県域に知行地を得たのは一万石以上が一一氏、一万石未満三〇〇〇石以上では一二氏であった。市域では、高崎線の西側一帯が牧野康成(やすしげ)の知行地となり、東側は蔵入地として関東郡代伊奈忠次(ただつぐ)の支配下に組み入れられた。