北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら
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Ⅳ大江戸を支えた村むら
1 徳川家康の入国
石戸領主・牧野氏石戸領に五〇〇〇石の地を与えられたのは牧野康成である。牧野氏の祖先は讃岐国(さぬきくに)(香川県)の出身で、その後、三河国(愛知県東部)に移って牧野村(愛知県豊川市)に住んだことから牧野を名字にしたという。康成は、永禄七年(一五六四)から徳川家康に従って、長篠(ながしの)の合戦など数々の戦いに参加して手柄をたて、家康に深く信頼された。康成の名も、家康から康の字を与えられたものだという。

写真55 石戸領の領主、牧野氏墓地
(鴻巣市勝願寺蔵 鴻巣市市史編さん室提供)
康成(やすしげ)が与えられた石戸領八か村は、ほぼ後の石戸領に当たる。その領域は、高崎線西側の北は鴻巣市滝馬室から南は上尾市小敷谷(こしきや)に至る荒川に沿う台地上の地域で、南北約一〇キロメートル、東西約二〜三キロメートルに及んでいた。江戸後期成立の「新編武蔵風土記稿』によると領内の村数は二一か村、そのうち市域の村は石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・高尾村・荒井村・荒井村枝郷北袋村の六か村であった。石戸領のある大宮台地の北部は、戦国時代から戦略上重要な所で、例えば上杉氏と後北条氏が争った永禄六年(一五六三)には、北条氏康・武田信玄連合軍と戦うために上杉謙信が石戸城に来たこともあった。北条氏は滅んだばかりで、その残党の勢力がまだ強かったこの時期に、石戸領周辺は江戸の防衛上からも重要な地域であった。そのため家康は、武勇にすぐれまた心から信頼できる康成に石戸領を与えたのだろう。康成が川田谷村(桶川市)に陣屋を建て、実際にそこに住んで石戸領の支配を行ったのも、そこが江戸防衛の要地だったためである。康成は、鷹狩が好きでしばしば近辺へ来た家康のために、休憩所として石戸宿に御茶屋を建てた。その後まもなく使用されなくなり壊されてしまつたが、その跡は「御殿稲荷(ごてんいなり)」として現在に伝えられている(写真57)。
慶長四年(一五九九)に康成は死んだが、その後も江戸時代二七〇年を通じて石戸領は牧野氏の支配下に置かれ、幕末に至った。この間、二代信成(のぶしげ)・三代親成(ちかしげ)は、一万石以上の大名となって、それぞれ下総国(しもうさのくに)(千葉県関宿)、丹波国(たんばのくに)(京都府田辺)へと移っていった。幕末まで石戸を支配した牧野氏は、三代親成が五〇〇〇石を分け与えた三人の弟(牧野尹成(ただしげ)=二〇〇〇石、永成=一五〇〇石、直成=一五〇〇石)の子孫たちである。

写真56 将軍の休憩所「御茶屋跡」と伝えられる所
(明治9年 地籍図)

写真57 石戸宿の御茶屋の存在を現在に伝える御殿稲荷
(石戸宿6丁目)