北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら

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Ⅳ大江戸を支えた村むら

2 村と農民

③人別改めと宗門改め
領主が支配地の村むらの居住者の数や男女比、年齢構成などを正確に知ることは、支配の基本的な仕事であり、これは今も変わることがない。
江戸時代の人口調査は、「人別改め」と呼ばれ、八代将軍吉宗の享保十一年(一七二六)に行ったのが最初とされている。人別改めは、村単位で行われ、これを調査して帳簿につけるのは、名主の大事な仕事であった。市域にも、この帳簿がいくつか残っている。
例として下石戸上村の名主庄蔵が、寛保三年(一七四三)に領主に差し出した人別改めの帳簿を見てみよう(写真77)。
一 田畑一町四反九畝一歩       年三四才
                     組頭 作右衛門 印
  母親  在宅           年七一才 ふき
  姉   安養寺村の市兵衛に嫁いだ 年四五才 かね
  女房  北袋村の太左衛門の娘   年三二才 みよ
  女子  在宅           年一二才 いろ
  女子  在宅           年五才  そよ
  妹   同じ村の平七に嫁いだ   年二八才 くら
  下男  中丸村の善兵衛のせがれ  年三五才 権助
  下男  中丸村の仁右衛門のせがれ 年二〇才 小兵衛
  下女  下石戸下村の茂兵衛の娘  同二一才 なつ
    家にいる人数八人 うち男三人
               女五人
    家から出ていったのは女二人
      (近世№一五四を一部省略し書き改めた)


写真77 下石戸上村の御改人別帳

(寛保3年 吉田眞士家蔵)


書き方は家族ごとになっていて、戸主作右衛門のもつている田畑の広さ、その家族構成と年齢、姉・妹の嫁ぎ先、それに下男・下女の実家までも記録してある。このようにして、村内のすべての家族について書かれている。全部をまとめると、下石戸上村の全人口と戸数は四四二人・九四軒で、そのうち男が二二一人、女二二一人である。この数字を基にして一家族の平均的家族構成を計算すると、男女とも二、三五人で合わせて四・七人となり、右の作右衛門の家族はやや多いほうになる。また、村から出ていった者(転出者)が一五四人いる。その行く先をみると、嫁ぐ場合は石戸領内が中心だが、奉公の場合は圧倒的に江戸が多い(二九人)。農村から江戸に人口が流出していることが分かる。
村内の家族を詳しく調査する人別改めは、「宗門改め」と内容が重なり、しかもどちらも名主の仕事であるため、両方の帳簿を合わせて、「宗門人別帳」とすることが多かった。宗門改めとは、「幕府と寺」(一四五頁)でもみたように、領民一人ひとりが確かな仏教徒であるかどうかを調べ、それを所属する寺(旦那寺)に証明させるというもので、幕府のキリシタン禁止政策をいっそう徹底したものである。幕府は、直轄領・大名領・旗本領のすべてにおいて、毎年調査を行うことと、それを記録して保管することを命じた。

写真78 村の戸籍簿で人の移動も厳しく管理した宗門人別改帳

(吉田眞士家蔵)

天保十一年(一八四〇)の荒井村の「御改宗門人別帳」を見ると、家族単位で家族構成と年齢、嫁いだり奉公に出た者の行き先、奉公に来ている者の実家などが書かれているのは、前に見た人別帳と同じである。しかし、一番最初に「下川田谷村天台宗泉福寺菩提(ぼだい) 印」と、その家族の旦那寺が明記されている。また、帳面の最後に、その泉福寺と末寺である下石戸上村の真福寺が、「右の者は、昔からこの寺の旦那であることに間違いありません」と、署名して印を押している。この部分が、寺による証明(寺請証文(てらうけしょうもん))で、宗門改めにあたる部分である。
人別帳や宗門人別帳に、転出者(よそに嫁いで行く、奉公に行く)や転入者(この村に嫁いで来る、または奉公に来る)についてこまかく書いているのは、宗門改めと治安維持の観点から、村人の移動について慎重になっていたからである。

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