北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら
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Ⅳ大江戸を支えた村むら
3 変わる農村、強まる支配
重立ち百姓の成長検地のところでも見たように、江戸幕府は初期のころ、(十七世紀全般)経済的な基盤を確保するために、新田の開発を積極的にすすめた。その結果、十七世紀の後半には耕地は激増した。これに伴って農民も増え、その多くは実家や主人の家から独立した。彼らは夫婦が中心で、小さいながらも自分の田畑をもち、家を建て、年貢を納めるようになった。こうして生まれたたくさんの農民たちを小農民(または小百姓、小前百姓)という。
しかし十八世紀に入ると、自然災害による被害や、重い年貢の負担、さらに貨幣(金銭)の流通などによって、人びとの暮らしはしだいに圧迫を受けるようになる。その結果、破産をしてしまうのが前にみた潰百姓(つぶれびゃくしょう)だが、そこまでいかなくても、田畑を担保にして(質入れという)金を借りたり、売り渡してしまう者が増えた。もともと幕府は、寛永二十年(一六四三)に田畑永代売買禁止令を出して、農民が田畑を売り買いすることを禁じていた。しかし、江戸時代を通じて、全国で田畑はかなり売り買いされた。暮らしに困った人びとには、ほかに方法がなかったからである。その事情は幕府も分かっているため、あまり強くは取り締まらなかった。
表10 荒井村の旧名主の家に残る証文の種類

(質地証文より作成)

写真79 年貢を払うために畑を質に入れる旨の証文
(岡野正家蔵)
そうした農民が、田畑を売り渡したり、金を借りた相手は、同じ村内で金に余裕のある者が多かった。つまり名主(なぬし)・組頭(くみがしら)など村役人をつとめるような者たちである。荒井村の名主だった家には、そうした田畑の売り渡しなどに関する証文(契約書)が、表10のように江戸時代中期から後期まで一七〇年間にわたっ て一七四通残っている。田畑をはじめから売り渡してしまう「売り渡し証文」、田畑を質入れして期限つきで金を借りる「質地証文」などである。質地証文(写真79)は、三年とか一〇年とかの期限がきても金を返せない場合は、土地を引き渡すといった内容だが、実際はほとんど金は返せず、そのまま貸主のものになったケースが多かった。証文に書かれている土地を合算すると、二〇町八反四畝六歩(約二一万平方メートル)の田畑と山一九か所、屋敷二か所になる。そのほとんどが、名主の家のものになったと考えられる。つまり、金に余裕のある者は新しい田畑を手に入れることによって、より豊かになっていく。江戸時代中期以降に、田畑を自分のところに集め(土地の集積)、経営の規模を大きくしていったこのような農民を「重立(おもだ)ち百姓」(豪農)という。
重立ち百姓とはどういうものか、下石戸上村の例で見てみよう。寛保三年(一七四三)の村内の田畑は、全部で七四町八反二二歩(約七四万一三〇〇平方メートル)であった。土地をもっている農家が九二戸だから、一戸の平均は八反三畝(約八二〇〇平方メートル)である。そのなかで、重立ち百姓である名主の家は一〇町一反八畝三歩(約一〇万一八〇〇平方メートル)をもっていた。これは、一戸平均の約一二倍、村全体の田畑の一三・六パーセント余りにあたっている。当時、この家の家族は六人であるが、そのほかに一〇人の下男と五人の下女を雇っていた。二年前の寛保元年(一七四一)から酒造業も行っていて、農業以外の仕事にも手を広げていた。つまりこの重立ち百姓の家は、名主で、大地主で、商品(酒)の生産者だったわけである。