北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら

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Ⅳ大江戸を支えた村むら

3 変わる農村、強まる支配

高まる商品生産
市域は東と西を低地にはさまれた台地の上にある。そのため、江戸時代の農業は畑作が中心であった。十七世紀中ごろには、市域の村高合計は三一七一石で、そのうち田の石高(こくだか)は二二・七パーセント、畑は七七・三パーセントで、畑作が中心であったことが分かる。とくに、石戸宿村(当時は石戸町)・本宿村(本鴻巣村)・東間村(東間新田)は田の石高がゼロとなつている(表11)。

表11 北本市域における田・畑の村高

(「武蔵田園簿」『天保郷帳』より作成)

畑の主な生産物はもちろん麦で、そのほかにも木綿(もめん)・大豆・えごまなどが作られていたが、残念ながら江戸時代の畑作物の資料はほとんど残っていない。明治時代初めの資料によると、麦(大麦六一八四石、小麦一七二〇石)が多いのは当然だが、そのほかに甘藷(かんしょ)(さつま芋)が二三万八〇〇〇貫とたいへん多いのが目につく。これは個人や村で消費する分よりはるかに多い量である。明らかに、商品として売るためにさつま芋を作っていたのである(表12)。
表12 明治初期における市域の穀類などの生産高
 米 大麦 小麦 甘藷 
石戸宿21.9517.520724,700
下石戸上151337345210駄
下石戸下13737211738,000
荒 井80585
高 尾1161,373223
古市場86105326,300
別 所168100206,300
花ノ木405015150駄
中 丸1811,2005003000駄
山 中302006250駄
本 宿190224,212
宮 内3102406420万斤
東 間3504811万6000斤
深 井1335651219,750

(『武蔵国郡村誌』より作成)

江戸時代の村は、基本的には自給自足の社会だった。農民は、作った米の約半分を年貢として納め、残りを来年の種子にしたり自分たちで消費した。麦などの畑作物の年貢は、市域の場合は金納と決められていたので、その分だけを売って、金銭で納めた。それを除けば、農村には貨幣経済(生産物を商品として、金銭によって売り買いする経済の仕組み)は行き渡っていなかった。ところが、江戸時代中期(十八世紀)以降になると、貨幣経済が発達して、生産物は商品となるという考え方が広まった。ちょうどその頃、農村では農業技術が高まって、自分たちで消費する以上の作物を得ることができるようになった。ここから、年貢や消費のためだけではない、売るための生産、つまり商品生産が始まったのである。
市域でも、十八世紀後半からはそのような商品生産が行われていた。生産物としては、さつま芋をはじめ、鶏の卵・ナガイモ・クリ・ゴマ・ニンジン・ソバ・茶・ダイコン・サトイモ・木綿・繭(まゆ)などがあった。代表的なものを見てみよう。

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