北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら

社会1 >> 北本のむかしといま >> Ⅳ 大江戸を支えた村むら >>

Ⅳ大江戸を支えた村むら

3 変わる農村、強まる支配

④俳句
俳句は五・七・五の一七音であらわす短い詩で、短歌とともに、日本の代表的な伝統文芸である。江戸時代前・中期の人、松尾芭蕉(ばしょう)(一六四四〜九四)は、俳句((発句)を芸術的に高めた。また、このころから、民衆の文芸として広まっていった。
市域でも、芭蕉の時代から一〇〇年ほどたった十八世紀末から、生活に余裕のある村の有力者を中心として、俳句づくりを楽しむ趣味が広まった。彼らは、社中や連(俳句の同好会)をつくったり、句会などに参加するなどの活動を行った。現在までに確認されている市域の人の俳句で一番古いものは、明和九年(一七七二))に、鴻巣宿の俳人、横田柳几(りゅうき)(号は布袋庵(ほていあん))がまとめた「古河わたり集」にのっている次の句である。
  谷川を龍田にしたるつつじ哉  (古市場 瓦光)
同じ横田柳几がまとめた安永六年(一七七七)の句集には、荒井村から三人の句が収められている。また、文化七年(一八一〇)にまとめられた『盆かはらけ』には、次の三
人の句がある。
  様々や旭にもろき露の玉    (中丸 如碇(にょじょう))
  言の葉も昔ながらの一葉かな  (中丸 嵐十(らんじゅう))
  ゆく雲や秋のゆふべの物あわれ (石戸 タ江(ゆうこう))
このうち、タ江は下石戸の吉田専助であることが分かっている。タ江たちは、比企地方にまで進出し、地元の吉見社中にも加わっていた。
市域には、こうして地元の俳人が建てた芭蕉の句碑が二つある。ひとつは、嘉永四年(一八五一)に石戸連の俳人一五名が建てた「原中や物にもつかず啼雲雀(なくひばり)」の句碑で、石戸宿四丁目の道沿いに今もある(写真90)。もうひとつは、荒井村の岡野とく家が所有している「いろいろの事おもひだす桜かな」の句碑で、文化十五年(一八一八)に建てられたものだが、残念ながら市域との関係がはっきりとは分からない。

写真90 石戸連の俳人たちが建てた芭蕉句碑

(石戸宿4丁目)

<< 前のページに戻る