北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら

社会1 >> 北本のむかしといま >> Ⅳ 大江戸を支えた村むら >>

Ⅳ大江戸を支えた村むら

4 幕末の世情

異国船来たる
江戸幕府は初期のころから、鎖国(さこく)(国を閉ざして外国と交わらない)政策を推し進めた。寛永十六年(一六三九)以降は、オランダ・朝鮮・明を除くすべての外国との通商と交通を禁止した。幕府のつくりあげた支配の仕組みは、鎖国により外国の影響を受けなくなったことで、いっそう強固になった。そして、ある程度の繁栄と長い平和の時代をもたらした。人々は、それを「太平の世」と呼んだ。しかし、世界からみれば、日本は孤立していた。十八世紀後半、西欧の諸国は、富を求めて東アジア・北太平洋地域に進出をはかり始めた。このころから日本は、開国を求める外国の圧カにさらされることになつた。
寛政四年(一七九二)、ロシアの使節ラクスマンが蝦夷地(えぞち)(北海道)に来航して、松前藩に通商を求めた。享和(きょうわ)三年(一八〇三))にはアメリカ船が長崎に来航した。文化元年(一八〇四)には、ふたたびロシア使節のレザノフが長崎に来航して貿易を求めた。さらに文化五年にはイギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入するという事件も起きた。このような諸外国の活発な動きに驚いた幕府は、鎖国を守りぬくために蝦夷地や本州沿岸の守りを固め始めた。
埼玉県域は江戸に近いため、ほとんどの領地が徳川家に近い家筋や家康以来の家臣など幕府にとって信用のできる大名・旗本で占められていた。そのため、川越・忍(おし)(行田)の二藩は、江戸を守るのにもっとも重要な江戸湾(東京湾)を警備することになった。川越藩は、文政三年(一八二〇)以降、三浦半島に家臣を常駐させ、天保十三年(一八四二)からは相模備場の警備を担当した。同じ年に忍藩は、江戸湾をはさんで対岸の房総の警備にあたることになつた。
警備には普通は藩の武士たちがあたっていたが、異国船の来航など緊急の場合には、農民や馬もかりだされた。例えば弘化三年(一八四六)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが二艦を率いて江戸湾口の浦賀にやってきたときに動員された人馬は、五万五六七〇人・ 一八六疋にのぼった。かりだされる苦労は相模・房総の農民たちばかりではなかった。藩の地元でも、夫役(ぶやく)(領主が農民に対して労働を命じること)が強化された。忍藩では、嘉永三年(一八五〇)以前は石高一〇〇石につき馬一疋・人足三人だった規程が、これ以後は馬三疋・人足一〇人と一挙に三倍増となつた。また警備費用にあてるため、商人には御用金(臨時に納めさせられる金銭))の納入を命じている。

写真91 浦賀に来航したペリーの艦隊(黒船)を見に来た人びと

(県立博物館蔵)

嘉永六年六月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、フィルモア大統領の親書をもって浦賀に来航し、日本の開国を求めた。幕末の動乱期の幕開けである(写真91)。


写真92 ペリー来航に対する御用金の納入割当帳

(吉田眞士家蔵)

ペリー来航に対して、関東の村々には、さっそく御用金の納入が命じられた。市域でも、石戸領主牧野大内蔵時成(おおくらよししげ)が御用金の納入を命じた。その割り当て帳をみると、異国船の来航で防備費用など何かと金がかかるので、石戸宿・下石戸上・下石戸下・上川田谷・樋詰(ひのつめ)・下日出谷の六か村で合わせて金五〇両を納めよとなっている(写真92)。市域での割り当ては、石戸宿村が六両一分余、下石戸上村が一〇両一分余、下石戸下村が一〇両二分余となっている。これらの金額は、各村の年貢高の一割前後にあたり、農民にとって、大きな負担であった。

<< 前のページに戻る