北本のむかしといま Ⅳ 大江戸を支えた村むら
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Ⅳ大江戸を支えた村むら
4 幕末の世情
英艦の接近と村の負担異国船の渡来がまわりまわって村の負担となるのは、右にみたペリー来航のときばかりでなく、その後にもたびたびあった。そのひとつを、荒井村の例で見てみよう。
文久三年(一八六三)三月十三日、荒井村と小泉村(上尾市)の両村の名主あてに、江戸にいる領主牧野鉄次郎から急ぎの手紙が届いた。その内容は、「横浜に英国艦船が集まってきている。戦争になるかもしれない。鉄次郎は幕府から浅草御蔵の守りを命じられた。ついては、丈夫な人足二人と組頭一人、それに軍用金二〇両を、急いで江戸に送ってほしい」というものであった。
この手紙の背景になっている歴史的事件を説明しておこう。少し前の安政の五か国条約(安政五年・一八五八)によって、すでに日本は開国し、外国との通商に踏み出していた。しかしこの時期になってもなお、攘夷(じょうい)(外国を打ち払う)か開国か、あるいは尊王(そんのう)(天皇を第一にうやまう)か佐幕(さばく)(幕府に従う)かで、国内は騒然としていた。そういう状況のなかで、文久二年八月、江戸から京に向かっていた薩摩藩(さつまはん)の島津久光(しまずひさみつ)の行列の隊士が、馬で通りかかったイギリス人四人が行列を横切ったという理由で殺傷する事件が起きた(生麦(なまむぎ)事件)。イギリスの代理公使は、幕府に強く抗議し、犯人の逮捕と賠償金二〇万ポンドの要求をつきつけた。その交渉に合わせるかのように、文久三年三月にはイギリス艦船が横浜沖に集まった。そして、明確な解答がないときは江戸を焼き払うとおどした。右の手紙は、まさにこの時期に出されたものなのである。もちろん、こういう事情は庶民には知らせなかった。
写真93 平兵衛が立て替えた軍用金の払覚帳
(矢部洋蔵家蔵)
さて、手紙を受け取った荒井村の名主平兵衛は、さっそく翌日には人足の弁吉・周蔵と組頭(くみがしら)の幸助を江戸に送り出した。軍用金二〇両のうち一二両が荒井村の負担する額であったが、急ぎのため平兵衛が立て替えて幸助にもたせた。この一二両に人足・組頭にわたす分を足して一五両一分は、のちに三八名の村人に割り当てられた。それにしても、手紙の翌日に出発とは、農民の都合などあったものではない。このとき江戸に行った三人は、一〇日間ほど勤めて村にもどった。しかし、その後も、五月に弁吉・新蔵、六月に幸助が江戸に行っている。
英国と幕府の交渉は、五月九日に幕府が賠償金に応じたことでいちおう決着がついたが、英国艦船は六月二十一日まで横浜にとどまっていた。結局、荒井村では三月十四日から六月二十三日までの間に、人足九九人を提供している。その他でも、名主平兵衛は、領主の親戚(しんせき)の万一のときの避難先として村内の寺を用意したり、領主に金を用立てたりしている。
以上は荒井村の例だが、異国船さわぎの時期には、他の村でも同じように、さまざまな負担を負わされたことであろう。