北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに

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Ⅴ富国強兵の名のもとに

1 御一新の波

神社と寺院の分離
慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古(おうせいふっこ)の大号令が全国に示された。王政復古とは、鎌倉時代以来、武士が握っていた政権を朝廷がとりもどし、ふたたび天皇(王)が中心となる政治を行う、というものである。維新(いしん)政府は慶応四年三月、神々をまつることと国の政治を一致させる(祭政一致(せいさいいっち))という方針を決め、神道(しんとう)によつて国をまとめていくことを明らかにした。その方針に従い、同年三月〜四月にかけ神仏分離令が出された。
日本は、奈良時代中期ごろから、神仏習合(しんぶつしゅうごう)を続けてきた国である。日本の神々への信仰と中国からやってきた仏教の信仰を、うまく合わせて調和させたのが神仏習合である。例えば、「権現(ごんげん)さま」というのは、仏が神の形をかりて現れたものとされる。徳川家康のことを江戸時代には東照権現といったが、家康は、人々にとって神さまであり仏さまだったのである。このような神仏習合の長いあゆみのなかで、多くの神社には別当寺という寺がいっしょになっていたり、僧が神前で経文をよんだりするのが、ごく普通のことになっていた。
幕末になると、神道を本来の姿にもどそうと考える国学者たちは、神仏習合を否定し、仏教を日本民族にとって有害な宗教であると主張した。この主張は、尊王攘夷(そんのうじょうい)(天皇をうやまい、外国を打ち払う)運動と結び付いた。明治維新を成し遂げた人々の多くは、尊王攘夷から出発した人たちだった。そのため、維新政府は神道を国の教えとして天皇を支えていく方針に傾いたのである。

写真97 神仏分離に伴って僧が出した還俗願い

(矢部洋蔵家蔵)

神仏分離令によって、神社から仏教色を追い払うことが定められた。神社の別当寺の僧侶をやめさせる、仏像を神体としている神社はそれを取り払う、梵鐘(ぼんしょう)(お寺の鐘)も取り払う、といった内容である。このため、地域によっては、寺堂・仏像・経典などを壊したり焼いたりという激しい行動(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく))になったところもあった。
県域及び市域では、そのような激しい行動はなかったが、須賀社(荒井)の別当寺の僧が出家をやめて普通の人にもどった(還俗(げんぞく))。また、江戸時代の牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)・弁天社・第六天社・聖天社・道祖神社・山王社・八幡社などの神社が名称を変えたり、合併したり廃絶したりした。

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