北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに

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Ⅴ富国強兵の名のもとに

1 御一新の波

埼玉県になるまで
江戸時代の領地支配には四つの種類があった。幕府の直轄領(ちょっかつりょう)(代官所が支配する)・旗本領・寺社領・大名領(藩)である。市域は、幕府直轄領と旗本領・寺社領からなっていた。では、幕府が滅んでからの市域の支配関係はどうなったのだろうか。
慶応四年閏(うるう)四月、新政府は「政体書」を公布した。それに基づいて、地方の行政は府・藩・県の三治制になった。東京・大坂・京都など重要な地域を「府」とし、江戸時代の大名領をそのまま「藩」とし、それ以外の直轄地・旗本領・寺社領・新政府に反対し没収された大名領を「県」とした。
旧武蔵国は武蔵県になり、三人の知県事(いまでいう知事)が任命された。市域は、三人のうち旧忍藩士(おしはんし)山田一太夫の支配下に入った。しかし、武蔵県というのは実は公式に設けられたものではなく、現実には旧幕府の代官所がさまざまな事務などをとりあえず行っていた。新しい政府はまだできたばかりで、地方の行政は混乱していたのである。
明治以降の時代を歴史上では近代と呼ぶ。市域が近代の行政機構において最初に属したのは、明治二年(一八六九)一月に設置された「大宮県」である。このとき、市域の村は、石戸宿・下石戸上・下石戸下・高尾・荒井・東間・深井・宮内・本宿・山中・古市場・上中丸・下中丸・花ノ木・別所の一五か村であった。

写真98 大宮県の印

(矢部洋蔵家蔵)


しかし、大宮県の期間は短かった。同年九月には、大宮県は「浦和県」と名が変わったからである。その理由ははっきりしないが、浦和を県庁(はじめは県邸といった)の場所として選んだということなのだろう。浦和県の管轄する土地は、市域を含む足立郡をはじめ、豊島・埼玉・横見・大里・男衾(おぶすま)の六郡である。明治三年には、鴻巣に浦和県出張所が置かれ、市域はここの管轄となつた。
このように市域が属した行政上の区域と名称は変わったが、明治三年までの市域の村々には大きな変化はなかった。それぞれの村は依然として村役人が管理し、村が集まって組合村をつくっていた(市域の村は鴻巣宿寄場(よせば)組合と桶川宿寄場組合に属していた)。明治二年には寄場組合の名は御用会所組合となったが、その役目はほとんど同じであった。つまり、行政の組織も旧幕府支配のやり方を引き継いでいたわけである。
明治四年七月に維新政府は、全国の藩を廃止して府・県に統一するという、大きな制度上の変更を行った。これが廃藩置県(はいはんちけん)である。藩はかつての大名領であり、その藩知事はかって殿様だった大名自身が任命されていた。その藩を廃止し、殿様の藩知事をやめさせることによって、江戸時代から残っていた大きな政治勢力がなくなり、政治を行うカは東京の新政府に集められた。維新政府は名実ともに日本を導いていく明治政府となった。同年十一月、全国は東京・大坂・京都の三府と七二県に分けられ、府には府知事が、県には県令が、それぞれ東京の中央政府から任命、派遣された。
このとき、(旧)埼玉県・入間県の二県になり、市域は浦和県から「(旧)埼玉県」の管轄となった。その後、地方制度の変更などもあったが、市域は現在まで埼玉県に属している。

写真99 明治24年に新築された埼玉県庁舎

(埼玉県立浦和図書館提供)

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