北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに
社会1 >> 北本のむかしといま >> Ⅴ 富国強兵の名のもとに >>
Ⅴ富国強兵の名のもとに
1 御一新の波
徴兵制と西南戦争明治六年一月、徴兵令(ちょうへいれい)が出された。徴兵とは、国民を強制的に集めて、兵士とすることである。国民によって組織される軍隊は、近代的な国家をめざす明治政府にとって、国内的にも外国に対しても政治的な威光を示すために、絶対必要なものと考えられていた。この徴兵令によって、満二〇歳以上の男子は、まず常備軍に入って三年間の兵役をつとめ、その後は後備軍(予備の軍)として家業にもどることになった。また、それ以外の一七歳から四〇歳までのすべての男子は国民軍に登録されて、非常事態が起こったときには隊を編成することになった。市域でも、徴兵を行うための資料として、一七歳に達した男子を帳簿に登録する調査が行われている。
しかし、実際は「すべての男子」が徴兵されたわけではなかった。戸主(こしゅ)(一家の主人)、嗣子(しし)(長男または養子で、家の後継ぎとなる者)、特別の学校や陸海軍の生徒、官吏(役人)、洋行修行者(外国に行って勉強している者)、そして誰かに兵役を代わってもらうための代金二七〇円を支払った者、これらはすべて兵役につかなくてよい(免除)とされた。つまり、「国民皆兵(かいへい)」は名ばかりで、実際に徴兵された者の大部分は貧しい農家の二・三男たちだったのである。この不公平な徴兵制に対して、明治六〜七年には、西日本を中心にして徴兵反対一揆(いっき)が起きた。また、徴兵を逃れるためのいろいろな方法を書いた『徴兵免役心得(ちょうへいのがれこころえ)』などという本も出版された。

写真105 徴兵検査実施の布達文
(県立文書館蔵)

写真106 兵役免除の証明書
(岡野武弘家蔵)
徴兵開始にあたって、埼玉県は第一軍管区東京鎮台(ちんだい)に属し、一年間の徴兵人員は二三八〇人が予定された。徴兵令が出た翌年の明治七年五月、政府は台湾に出兵した(台湾出兵・征台(せいたい)の役(えき)・牡丹社(ぼたんしゃ)事件などと呼ばれている)。台風のため台湾の牡丹社に流れついた琉球(りゅうきゅう)(沖縄県)の船員が殺害されたのをきっかけとした出兵だったが、その背景には琉球をめぐる日本と清(しん)(中国)との関係、政府内の意見対立など複雑な問題があった。台湾に上陸した日本軍三六五〇名は、半月の戦闘で牡丹社を制圧した。石戸村にはこの戦争に参加した兵士の記録が残っている。それによると同村から兵士二名が出征し、一人は戦死、もう一人は病死したという。
徴兵制が出されたころ、国内では大きな問題が進行していた。士族(江戸時代の武士のことをこう呼んだ)の取り扱いをどうするかの問題である。明治維新は、下級武士たちが中心となって成し遂げたものだった。そのため、明治になっても武士層は特権意識をもち続けた。また、士族に対して支払われる俸給(秩禄(ちつろく))は、当時の国が使用する予算の四割にもなっていた。士族は、近代化にあたっての障害となった。そこで政府は、秩禄などの特権を廃止したり、武士の象徴である刀をもっことを禁止したりした。徴兵令による国民皆兵の考え方も、武力をもつのは武士だけという特権を否定するものだった。
こうした政府の政策に不満をもつ「不平士族」たちが増えていった。その結果、佐賀の乱(明治七年・一八七四)、神風連(じんぷうれん)の乱(明治九年)、秋月(あきづき)の乱(明治九年)など、不平士族による反乱が続いて起きた。その最後で最大のものが、明治十年の西南戦争である。
明治六年の征韓論(せいかんろん)問題で敗れた西郷隆盛は、政府の役職をやめて故郷の鹿児島に帰った。薩摩藩は維新の中心的な勢力だったが、明治になってからも士族の力が強く残っていた。国を閉ざし、学校(私学校)をつくり、政府の方針を無視し続けていた。明治十年(一八七七)一月、鹿児島にあった陸軍火薬庫の移動の問題をきっかけに、私学校を中心とする薩摩士族一万五〇〇〇人は、西郷隆盛を押したてて立ち上がった。これが西南戦争である。戦いはすべて九州内で行なわれ、薩摩軍は最後には鹿児島にもどり、西郷隆盛ら指導者が自刃(じじん)して終わった。

写真107 明治新政府の中心人物で、のちに西南戦争を起こす西郷隆盛
(鹿児島市 尚古集成館蔵)

写真108 石戸村に建立された表忠碑。
(本町1丁目に移設)