北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに

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Ⅴ富国強兵の名のもとに

2 古い村から新しい村へ

石戸村・中丸村の誕生
明治二十一年(一八八八)四月、市制町村制が公布され、翌年四月から実施されることになった。前にみたように、明治十一年の郡区町村編制法で町村は自治体として認められ、明治十七年からは数町村が連合した連合村ができていた。今回の町村制は、それを発展させて、昔からの村をこえた新しい性格の地方公共団体をつくりだす目的をもっていた。その目的に沿い、独立して自治に耐え得る力をもつ町村をつくりだすため、政府は大規模な町村合併を推し進めた。その結果、全国の町村数は明治二十一年の七万一三一四から翌年末には一万五八二〇と、約五分の一になった。埼玉県でも、戸数三〇〇〜四〇〇を標準として新しい町村をつくることとして合併を進め、明治二十二年には町村数は一九〇九町村から四五一町村に減った。この合併によって、市域では石戸村と中丸村の二村が誕生した(表14・図28)。
表14 町村合併により明治二十二年に誕生した石戸村・中丸村
新町村名旧町村名人口戸数
石 戸 村下石戸上村五一二八五
下石戸下村五三二八三
石戸宿村九四三一四九
高 尾 村一、〇一六一四四
荒 井 村八三九一〇五
三、八四二五六六
中 丸 村東 間 村四〇二五七
北本宿村二八六三九
深 井 村三六六五一
宮 内 村四〇四五七
山 中 村九六一三
古市場村一七七二一
北中丸村八二八一一三
常光別所村二三六三六
花ノ木村八九
二、八八四三九六

図28 近代における市域の地方行政区域の変遷

(『北本宿村の沿革』P5より引用)


石戸村は、上日出谷村連合から石戸宿・下石戸上・下石戸下、原馬室村連合から高尾・荒井の計五村を合併して成立した。総戸数五六六戸、人口三八四二人であった。新村の名称は、このあたりが昔から石戸郷として知られていたところから、石戸村となった。これに対し、五か村中で最大の戸数・人口をもつ高尾村から、高尾村のほうが知名度が高いとの異議が出されたが、認められなかった。これまでの各村名は、たとえば「石戸村大字石戸宿」というように、大字名として残ることになった。石戸村は、明治二十一年六月、大字下石戸上真福寺を仮役場として出発した。正式に成立したのは、町村制が発効した明治二十二年四月一日である。同年五月の村会選挙により、初代村長には元荒井村戸長の矢部長作、助役には下石戸下の大沢麒三郎(きさぶろう)が当選した。また、同年九月、大字下石戸上一五七五番地に役場を新築した。現在、北本農協石戸支所のある場所である。
中丸村は、旧東間村連合の九か村(山中・花ノ木・本宿・常光別所・古市場・宮内・深井・東間・北中丸)がそのまま合併して成立した。合併にあたって、宮内村・深井村は交流の深い上谷(かみや)村・西中曽根(にしなかそね)村(鴻巣市)との合併を希望したが、認められなかった。新村の名称は、九か村中最大の北中丸村の名をとってつけられた。成立は、明治二十二年四月一日である。総戸数三九六戸、人口二八八四人であった。同年五月の村会選挙により、初代村長に旧宮内村の長島源次郎、助役に旧北本宿村の関根喜右衛門が当選した。

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