北本のむかしといま Ⅴ 富国強兵の名のもとに
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Ⅴ富国強兵の名のもとに
2 古い村から新しい村へ
高まる民権運動明治の初めには、国会はなく、選挙によって選ばれる議員もいなかった。政治を動かしていたのは、維新に功績のあった薩摩(さつま)藩(鹿児島)・長州藩(山口県)をはじめとする者たちであった(藩閥(はんばつ)政府)。明治七年(一八七四)、征韓論に敗れて政府をやめた板垣退助(いたがきたいすけ)・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣(そえじまたねおみ)らは、役人が独断で政治を決めている(有司専制(ゆうしせんせい))と政府のやり方を非難し、国会を開設するべきだとの意見を提出した(民撰議院設立建白書)。これをきっかけにして、国会開設・憲法制定などを求める運動が全国に広まった。これが自由民権運動である。自由民権運動は、「人間の自由は、国家から与えられるものではなく、もともとそなわっている権利で、国家も干渉することはできない」という考えに基づき、人民が政治に参加する権利(民権)を求める運動だった。

写真109 明治8年、県内で最初に結成された政治結社・七名社の人びと
(中村宏家文書 埼玉県立文書館)
自由民権運動は、埼玉県では熊谷を中心とする県北地方から起こり、民権を主張する政治結社が数多く結成された。もっとも早いのは石川弥一郎らが明治八年に結成した七名社である。その後、明治十五年までに、分かっているだけで四〇の結社がつくられた。市域では、こうした政治結社ができたという記録はないが、鴻巣や桶川では政治を論じる演説会がしばしば開かれた。国会開設を求める運動を積極的に進めたのは、明治十一年(一八七八)に羽生(はにゅう)で結成された通見社(つうけんしゃ)であった。同十三年には、通見社の代表が政府の中心的な指導者である岩倉具視(いわくらともみ)に直接会って、国会の開設を求めている。
明治十四年(一八八一)十月、明治天皇は、来る明治二十三年に国会を開設すると国民に告げた。その直後に板垣退助を中心として自由党が結成された。また、翌十五年三月には大隈重信(おおくましげのぶ)を中心として立憲改進党も結成された。どちらも自由民権運動の有力な政党である。埼玉県では、明治十五年二月に、通見社などが母体となり熊谷で自由党埼玉支部が結成され、続いて同年三月には、埼玉改進党が結成された。
市域が属した北足立郡は、県内でも政治運動が盛んなところであった。明治十七年に県内一八郡で政党(自由党・改進党)に入党している者三六四名のうち、九九名は北足立郡の者であった。特に改進党員の半数近くは北足立郡出身者である。市域では、宮内村の大島牧太郎、北中丸村の加藤縫次郎(ほうじろう)が改進党員であった。
改進党が北足立郡に根づくのに最も力をつくしたのは、北足立郡馬室村(鴻巣市)出身の加藤政之助である。加藤は慶応義塾を卒業し、大阪新報という新聞の記者をつとめたのち、明治十三年に二六歳で埼玉県会議員に当選した。同十五年から二十三年まで県会議長をつとめて、改進党の勢力を広めるのに活躍した。明治二十五年には衆議院議員となり、昭和二年(一九二七)からは勅選(ちょくせん)議員にもなった。

写真110 県議会議長も務めた加藤政之助
(埼玉県議会提供)
明治二十二年に大日本帝国憲法が制定され、翌年には国会(帝国議会)も開設されたことにより、自由民権運動は終わった