北本のむかしといま Ⅵ 首都近郊圏として
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Ⅵ首都近郊圏として
1 戦後の諸改革と北本
町村合併の動き昭和二十七年(一九五二)、地方自治法が改正され、府県の知事は、市町村の廃置分合(はいちぶんごう)などを勧告することができることになった。翌二十八年には町村合併(がっぺい)促進法が成立した。これに基づき埼玉県は、同二十九年二月に町村合併の試案を各町村に示した。その案によると、県内三一四か町村のうち、二七か町村をもとからある市に編入し、残った二八七か町村を合併によって七三か町村とするというものだった。北本宿村周辺の町村の合併案は、常光村・鴻巣町・馬室村・田間宮(たまみや)村・箕田村(以上は鴻巣市)及び北本宿村を合併し、面積四八・ハ〇平方キロメートル、人口四万六八九人の町にしようというものだつた。
昭和二十九年四月、北本宿村は合併促進協議会をつくった。しかし、同協議会の議論はあくまでも北本宿村を中心とした合併という方向に進み、常光村との合併の方針が決まった。常光村との合併は、いったんは両村が合意に達した。しかしその後、常光村では、交通・経済・文化の面でよりむすびつきの強い鴻巣町との合併の要求が強まり、合併交渉は打ち切りになった。同年七月になって、こんどは桶川・川田谷・加納・常光・北本宿の五か町村の合併案も浮上したが、これもあいまいなまま消えた。
以上の二つの合併案がうまくいかなかったため、北本宿村では合併問題を住民の意志にはかることになった。同年九月、村内四九区の意見がまとめられた。その結果、現状維持(合併をしない)という意見が三〇票を占め、現状のままで合併しないとの結論が出た。その後、昭和三十二年にも県の合併促進の勧告があったが、北本宿村の結論は現状維持で変わらなかった。それが住民の意思だった。