北本の仏像

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Ⅱ 各地区の仏像

2 石戸地区(旧石戸領)

 阿弥陀堂

阿弥陀堂 高尾1218 →(寺院詳細)

旧は泉蔵院という寺に付属した堂である。『風土記稿』によれば、同寺は新義真言宗、瀧馬室村(現鴻巣市)常勝寺の末寺で、西亀山無量院と号し、本尊は大日、と見える。また阿弥陀堂については、石戸頼兼なる人物が女亀御前の早世を追福して建立したもので、旧は石戸宿村にあったが後年当地に移した、という縁起を紹介し、さらに続けて、石戸宿の阿弥陀堂にも同様の話を伝えており不審である、本尊の弥陀は長一尺五寸の立像、鳥仏師または運慶作と伝える、と記している。もとより後世付会の伝説として信ずるにたらないが、泉蔵院が明治6年に廃寺となったにも拘らず、阿弥陀堂のみ今日まで維持されて来ている事実からすれば、当地区の歴史に深い関り合いを持つ堂と思われる。おそらく泉蔵院は、阿弥陀堂の別当寺であったのであろう。


【木造奪衣婆像】

阿弥陀堂 木造奪衣婆像

〔品質〕寄木造 玉眼力、彩色
〔法量〕 像 高 50.3 膝 張 41.0 膝 奥 34.5
奪衣婆は、地獄の入口にあたる三途の河のほとりに居て、亡者の衣を奪ぃ取る老婆で、中世以来の地獄思想の普及にともない、広く民間で信仰されるよぅになった。その姿は凶悪な怒りを顔に表わし、蓬髪を長く肩に垂れ、痩せ衰えた胸乳もあらわに粗衣をまとい、片膝を立てて坐すといった異様なもので、通例は冥界の支配者十王像と一具にして造像される。この像は面部や右膝頭の部材を欠失する破損のひどい作品だが、膝裏に墨書銘があり、江戸中期の享保三年(1718)十月、故人の菩提を弔うために、願主證譽順意が大行院及び平右衛門の寄進を受けて造立した旨明らかにされる。願主の證譽順意は、次に紹介する高尾の中井観音堂本尊木造十一面観音坐像胎内銘にも、再びその名を見い出せる点、注目してよい人物であるが、その経歴は詳らかでない。證譽といった名から判断すると、浄土宗系の僧侶であろうか。なお、この像の造立にあたって金壱匁を寄進した大行院は、南下谷村(現鴻巣市下谷)所在の本山派の修験寺で、往古は上足立三十三郷の年行事職を務めていたことが『風土記稿』によって知られる。

阿弥陀堂 膝裏銘文





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