北本の屋敷神 北本市の概要

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第1章 北本市の概要

北本市は、埼玉県の中央よりやや東、 東経一三九度三一分、北緯三六度〇分五五秒に位置し、 面積十九・六三㎢である。昭和三十四年町制、同四十六年市制を施行。現在の人口は約五万七千人である。北は鴻巣市、南は桶川市、東は鴻巣・桶川の両市、西は吉見・川島の両町に接している。
地形的には、南北方向に軸を持つ大宮台地の北部を、東西に幅三~五kmで横切った形で、西側は荒川、東側は元荒川の低地となっている。台地を刻む谷は、荒川(旧入間川)の侵食をうけた西縁に発達し洪積地と沖積地との比高は大きく起伏に富む地形を示している。市の中央部には、南北に細い江川の谷が入っている。台地は、西部の標高三〇m、中央部で二五m、東部で十五m程で西から東へゆっくり傾斜し、 東縁の台地と沖積地の比高は小さく、東南部では近代まで残っていた沼沢地との境はほとんど区別がつかないぐらいである。
「新編武蔵風土記稿」(以下「新記」と略す。)で知られるように、従来北本市域の田場所は極めて少なく、畑作の卓越する地域で、三十年程前までは台地上を松・なら・くぬぎ等が覆っていた。落葉・枯枝は住民の貴重な燃料であり肥料であった。山林を伐り開いた畑の土は軽く、冬の北西のからっ風に砂塵を舞い上げ、 まだ背丈の低い麦は根本をねじり切られた。このような困難な自然条件のなかで、農民は、麦・さつま芋作り、養蚕に励んできた。特にさつま芋は昭和に入ると「川越芋」として大量に出荷された。又、トマト栽培・花卉栽培等戦前から他地域にあまり例をみない作物にも積極的に取り組んだ。台地の解析した谷では、 昭和十年代までは谷地の湧水を利用した深田で「つみ田」が行われていた。戦後、台地の上で陸田が行なわれるようになるが、地下水が深く、ポンプを二台使い馬力アップして水を確保せねばならなかった。
歴史的発展も地形と深いかかわりがあるようだ。北本市を通過する歴史的に重要な三本の街道は地形に規制されている。台地の西縁には、中世以来の歴史をもついわゆる「鎌倉街道」が南北に走っている。北本市で一番早く開けた「石戸宿」(文献初出は応永十五年、一四〇八)は、この街道上にある。現在の荒川左岸を北上し、石戸宿・荒井村・高尾村を経て、鴻巣・行田方面へのルートである。江戸時代に入ると、荒川の舟運が台地西縁の村々を活気付けた。殊に幕末から高崎線開通の明治十七年頃までは、今日の北本市域で一番活気のある地域であった。四十石積の舟も高尾河岸までは遡航でき、河岸には忍藩御用を務める舟主もいた。舟運によって東京に出荷された「高尾ダンス」は東京市場の相場を動かしたという。
台地東縁の深井・宮内・古市場・花の木・北中丸の村々は、岩槻からこの村々を経由して鴻巣・東松山に行く街道の途中に位置していた。これ等東縁の村々から現鴻巣市の東部にかけては、戦国時代末期の岩槻太田氏の家臣「鴻巣七騎」の根拠地であった。このルートは近代に入り鉄道開通後も重要である。
歴史的に一番新しいルートは、市の中央部を南北に縦断する中山道である。江戸時代に北本宿は、鴻巣宿と桶川宿の合の宿にすぎなかった。今日、中山道に沿う家には「ホンジン」・「タテバ」・「コウヤ」・「アブラヤ」等の屋号を伝えるものがあるが町場を形成するに至らず、農業用地としても生産性の低い地帯だった。ようやく発展をみるのは、昭和三年に高崎線「北本宿駅」が開設されて以後のことである。

〔表1〕「明治9年1月村別戸数人口」
  戸数人口
1北中丸127749
2花の木1276
3常光別所33207
4山 中1389
5古市場26159
6北本宿44283
7東 間55321
8宮 内60344
9深 井59343
10石戸宿145726
11下石戸上80450
12下石戸下79425
13高 尾1851,022
14荒 井111672
 合計1,0295,866
「武蔵国郡村誌」による。戸数は本籍数のみ

昭和四十年代に入ると、北本市の様相は一変する。台地の東西両端を主たる生産の場としてきた純然たる農村地帯が、首都圏の住宅地に変貌する。経済の高度成長の時代に入り首都圏は膨張し、地価高騰の波が高崎線沿いに北上したのである。
昭和三九年の三百戸近い団地造成を皮切りに、 公営・民営の二十近い住宅団地が続々と造られていった。四十年代に入ると、人口の増加は年率五~九%もの高い増加率を示すようになり、 北本駅周辺の山林・原野はまたたく間に宅地と化した。昭和五五年現在、市域の四四・七%が畑・田、 二九・六%が宅地である。これは過去十年間に畑・田が十%減、宅地が十%増加した結果である。
四十年代以降急増した人口の大部分が居住する地域は、農村時代に人口希薄地域であった駅を中心とする一・五km程の円の中にほぼ含まれる。この増加人口は北本在住二十年足らずであるうえに、数十から数千戸の住宅団地に居住する人達が多く、日常、在来の北本の地域性に触れることはない。又、個々に土地・家を求め住みついた人達も、結局は新入者だけの町内会を構成することになり、土地の人達とは没交渉的である。わずかに給与所得者化した農家の二、三男の世帯が新興住宅地に土地柄を持ち込んでいる。
周辺の、在来の北本住民も大きく変質している。昭和四十年頃までの農家戸数(全市域。以下同様。)は、明治九年頃とほぼ同じであった。しかし、当時既に専業農家戸数は三分の一以下となっていて、昭和五五年には農家戸数八九三、その内専業農家はわずかに九十戸である。しかも農業従事者の高齢化が顕著で、五十歳以上が半数、三十歳以下の農業後継者層は一割に満たない。畑作農業を基本的な生業とした人々の姿が失われようとしている。


〔表2〕 「人口 ・土地利用の推移」
世帯数総人口人口
増加率
人口
密度
田・畑
地%
宅地%農家戸数農業従事者
総数専業
明91,0295,866
226,7261.15
大91,2707,6331.13386.1
141,2807,6861.01388.8
昭51,3418,0541.05407.4
101,3808,1451.01417.0
151,4298,3661.03423.2
222,30412,7171.52643.2
252,40213,4571.06690.81,215728
302,59314,2631.06726.6
353,01015,4831.09788.71,1853992,853
404,77720,5761.331,048.21,1092372,375
458,12931,6991.541,614.854.220.21,0691352,078
5012,64146,6321.472,375.547.525.5965871,424
5514,10350,8881.092,592.444.729.689390
今日、まだ北本市は緑が豊かである。広い畑地・田地・雑木林。 これは又、さまざまな野鳥の棲息地、そして、狐を頂点とする野生動物の生態系も維持されている。しかし、北本駅を中心とする商店街・住宅街は、在来の北本とは別の生活が行なわれる場所に変っている。周辺の地域でも静かだが大きな変化がおころうとしている。「オレはこうやって、ウジガミ様に手を合わすけど、息子たちはウジガミ様のことなんかちっともかまやしねえやね。」北本在来の文化を支えてきた人達の代替りが近づいている。

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