北本の屋敷神 北本の屋敷神
第2章 北本の屋敷神
第1節 分布
今回の調査で確認できた市内の屋敷神を祭る総戸数は七五〇戸である。
ウジガミサマ〔北中丸ー27〕
〔表一3〕「祭神別屋敷神数」
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | |||
北中丸 | 花の木 | 常光別所 | 山中 | 古市場 | 本宿 | 東間 | 宮内 | 深井 | 石戸宿 | 下石戸上 | 下石戸下 | 高尾 | 荒井 | B/A×100 | ||
明治9年 戸 数 | 127 | 12 | 32 | 13 | 26 | 44 | 55 | 60 | 59 | 145 | 80 | 79 | 185 | 111 | 1,029 | |
屋敷神所 在確認数 | 75 | 7 | 29 | 12 | 19 | 37 | 48 | 45 | 49 | 102 | 57 | 61 | 115 | 94 | A 750 | |
ウジガミ | 6 | 2 | 2 | 2 | 1 | 3 | 2 | 2 | 3 | 6 | 6 | 1 | 3 | 3 | B 42 | 5.6 |
稲 荷 | 42 | 4 | 12 | 6 | 12 | 25 | 38 | 26 | 34 | 43 | 35 | 35 | 72 | 58 | 442 | 58.9 |
八 幡 | 13 | 1 | 7 | 2 | 3 | 4 | 3 | 14 | 7 | 17 | 8 | 13 | 16 | 15 | 123 | 16.4 |
若宮八幡 | 3 | 1 | 2 | 1 | 1 | 2 | 3 | 2 | 2 | 1 | 18 | 2.4 | ||||
弁財天 | 3 | 2 | 5 | 2 | 4 | 2 | 3 | 7 | 2 | 2 | 4 | 4 | 40 | 5.3 | ||
荒 神 | 1 | 1 | 1 | 1 | 16 | 1 | 2 | 1 | 24 | 3.2 | ||||||
神 明 | 1 | 1 | 1 | 1 | 3 | 1 | 4 | 1 | 3 | 5 | 21 | 2.8 | ||||
天 神 | 2 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 1 | 10 | 1.3 | |||||||
金毘羅 | 3 | 1 | 1 | 2 | 7 | 0.9 | ||||||||||
諏訪 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 7 | 0.9 | |||||||
雷 電 | 2 | 2 | 1 | 1 | 6 | 0.8 | ||||||||||
第六天 | 1 | 1 | 1 | 2 | 5 | 0.7 | ||||||||||
浅 間 | 1 | 2 | 1 | 1 | 1 | 6 | 0.8 | |||||||||
権 現 | 3 | 1 | 2 | 3 | 2 | 1 | 12 | 1.6 | ||||||||
三 峯 | 1 | 1 | 2 | 1 | 3 | 8 | 1.1 | |||||||||
宝登山 | 1 | 2 | 2 | 1 | 6 | 0.8 | ||||||||||
秋 葉 | 1 | 1 | 2 | 4 | 0.5 | |||||||||||
白 山 | 1 | 1 | 1 | 1 | 4 | 0.5 | ||||||||||
愛 宕 | 1 | 2 | 3 | 0.4 | ||||||||||||
氷 川 | 1 | 1 | 1 | 1 | 3 | 5 | 1 | 13 | 1.7 | |||||||
*その他 | 2 | 1 | 1 | 3 | 3 | 2 | 1 | 4 | 6 | 4 | 4 | 7 | 38 | 5.1 | ||
祭神不明 | 18 | 5 | 2 | 4 | 4 | 1 | 2 | 12 | 34 | 7 | 13 | 16 | 9 | 127 | 16.9 | |
延祭神数 | 97 | 12 | 44 | 13 | 27 | 44 | 57 | 55 | 64 | 143 | 80 | 82 | 133 | 115 | 966 | \ |
*その他の祭神について、<北中丸>八坂、オヒラ様。<常光別所>薬師。<山中>不動。<本宿>毘沙門、恵比須、八雲。<東間>山王、無縁様、サンポウ様。<宮内>地神宮、馬頭。<深井>住吉。<石戸宿>観音、不動、馬頭、龍神。<下石戸上>観音、不動、具利加羅不動、摩利支天、疱瘡(ママ)、守謹神。<下石戸下>馬頭、庚申、レイジン、太陽神。<高尾>高尾山、帝釈天、若宮稲荷、ハンソウボウ様。<荒井>高尾山、霧島、金神、鬼神、道祖神、ミタマ、不動。……いずれも各一社。
分布状態は、人口の増加が停滞していた昭和二十年頃までの村落の分布状態とほぼ一致する。明治九年当時の旧村毎に比較するとき、各村の分布に粗密の差は少ない。やや注目されるのは、石戸宿と今日の西高尾・中央・本町であろうか。前者は市内で唯一、 近世に街村を成していたため町割に従って人家が建ち並び、屋敷神の分布は密である。逆に、後者は近年まで広大な山林、原野として残されていたため、 ほとんど人家は無く屋敷神の分布は極めてうすい。
「屋敷神」という言い方は学術用語であって、 北本市内では「ウジガミサマ」、又は、市内に最も普遍的に分布する屋敷神の祭神である「稲荷」に即して「稲荷様」と呼ぶのが一般的である。「おじいさん、うちの稲荷様は何んだと?」、「弁天様だ。」と言った具合である。「埼玉県民俗地図」(昭和五十三年、埼玉県教育委員会・埼玉県文化財保護協会)によれば、 北本市は埼玉県のほぼ東半分の地域同様に屋敷神が主として稲荷である「稲荷系」の地域に属している。そして、同「地図」は、県の西半分に分布する「氏神系」の東端は「比企丘陵東端の吉見町下砂あたりとみられる。」としている。北本市の場合、特定の祭神を持たず単に「ウジガミ」という事例は四二戸、五・六%あり、かつてお仮屋を年毎に設けた様子も数例うかがえる。これを合わせ考えると、北本市はかつての「氏神系」祭祀圏の面影を残す「稲荷系」祭祀圏ということになろうか。
市内の屋敷神の約八割は特定の祭神をもつ。統計表の「不明」が明らかになれば九割に達するかもしれない。
「稲荷」は、前記のように市域全体に普遍的に分布する。屋敷神の三分の二は稲荷である。
しかし、稲荷である根拠があいまいなものも多い。いつの頃からか、屋敷神とは稲荷であるという通念が先立ち、「オトカ様(陶製のキツネ)がいるから稲荷だろう。」「以前は(神屋の中に)何も無かったので鴻巣の荒物屋でオトカを買ってきて入れた。」「八幡」の神屋内に陶製の狐が入っている例もある。
「八幡」を屋敷神として祭る家は稲荷についで多く全体の六分の一に達する。分布状態は稲荷同様市内に普遍的である。特徴的なのは荒井の馬場地区で、 ここでは「福島姓は、八幡様を祭るものだ。」と言いほとんどが八幡である。稲荷と八幡を同時に屋敷神として祭る例が約四十あるが、特に理由はないようだ。
「弁財天」は、 台地東縁に朝日(花の木、常光別所)・古市場・宮内・深井と点々と分布する。水との関係は無さそうで、昭和に入り十年位までの間に、家内に病弱の者が出たりしたとき、祈禱者のすすめで祭るようになった場合がほとんどである。台地の西縁にも分布するが、特徴はつかみ得ない。
「荒神」を屋敷神として祭る家は市内に二十四あるが、その内十六は石戸宿に集中する。紀年銘の明らかなものは少ないが、天明年間一、寛政年間一、文化年間二、文政年間一、嘉永年間一と、幕末の六十年間に祭られたものが多かったようだ。修験の活躍あるいは流行神的意味があったのかもしれない。
「ウジガミ」を祭る家は、五・六%である。比較的北中丸に多い。
「天神」は、県内で第二位の多数(屋敷神は除く)が祭られている。そのうち北足立郡は二百余社で全県の四分の一を占める濃密地域である。北本市内でも「新記」に四社みられるが、 屋敷神としては十社しかない。
一軒の家で、二つ以上の神を屋敷神の祭神として祭る家は、全体の約四分の一である。稲荷と何らかの神の組み合わせとなっている陽合が多いが、これは特定の組み合わせの無いことを物語っていることでもあり、相互の神の間の序列も意識していないようである。二つ以上祭るようになった理由は様々である。分家、又は本家の潰れ屋敷のウジガミ様を引き取った。家族が患ったのでみてもらったらウジガミ様が二つあるというので二つにした。他家の土地を購入したさいその土地に祭られていたものを引き取った、等々である。
参考として、屋敷神が特定の祭神を「祭り込む」とき影響を与えたと思われる神社を列記しておく。
「武蔵国郡村誌」によれば、明治の初期市内には「稲荷」八社、「氷川」五社、「天神」四社、「須賀」四社、「巌島」三社、「神明」三社、「八幡」二社、「白山」二社、「浅間」二社、「諏訪」・「第六天」・「愛宕」・「八雲」・「金刀毘羅」・「道祖」・「熊 野」・「柏木」・「雷電」各一社があった。市内で神職の在住するものは、今日は高尾の氷川社のみ、東間の浅間社には戦前までいた。近隣の市町村で有力なものは、桶川市川田谷の「諏訪社」、同「熊野社」。桶川市加納の「天神社」。鴻巣市箕田の「ハ幡社」。鴻巣市下谷の「熊野社」。東松山市の「箭弓稲荷」等々である。「三峯」・「棒名」・「雷電」・「富士浅間」・「秋葉」・「氷川」等の講も少なからず影響を与えている。