北本のむかしばなし 伝説や昔話

社会1 >> 北本のむかしばなし >> 伝説や昔話 >>

源範頼みなもとののりより亀御前かめごぜん

この物語は、今からおよそ八〇〇年もむかしのお話です。
石戸の「蒲桜かばざくら」の根もとには、いかにも古びた石のとうがあります。ここにまつられている人は、鎌倉幕府かまくらばくふを開いた源 頼朝みなもとのよりともの弟、蒲冠者 源 範頼かばのかんじゃみなもとののりよりとつたえられています。
範頼は、源氏げんじ大将 源義朝たいしょうみなもとのよしともの子どもとして、遠江 国とおとうみのくにかばさと(静岡県しずおかけん)で生まれました。そのことから蒲冠者とよばれていました。範頼がまだ子どもだったころ、父は京都で平 清盛たいらのきよもりとたたかい、負けてしまいました。父や父にしたがってたたかいにでた武士ぶしたちの多くはころされてしまいましたが、おさなかった範頼やきょうだいたちは、命だけは助けられました。
やがて、範頼たちきょうだいが成長せいちょうすると、平氏へいしはきょうだいたちの仕返しをおそれて、きびしく見張みはるようになりました。生命せいめいのきけんを感じた範頼は、平氏の目のとどかないところをさがし、あちらこちらとうつり住みました。
そして、やっと石戸にたどりついたのです。大きな川(今の荒川あらかわ)をわたって来ました。川には、きよらかな水が流れ、きれいな小石があさせを作っていました。
石戸宿の堀ノ内に着いたときには、つかれはて、さくらの木のつえに手を引かれるようにしてやっとたどりついたのでした。そこには、平氏に知られないようにこっそりと源氏の味方をし、範頼を温かくむかえてくれる人びとがいました。平氏が支配しはいした京都から遠くはなれた武蔵国むさしのくにの石戸、今の北本市石戸宿のほり内館うちやかたに、範頼はようやく安心して住める所を見つけたのでした。そして、このあたりを支配する有力な武士のむすめ、亀御前かめごぜんをつまにむかえ、平和で幸せな日々を送っていました。
源氏が平氏とのたたかいに負けてから二〇年ほどすぎました。平氏が自分勝手なせいじをしたので、ふまんをもつ人びとの声が高くなってきました。範頼の兄の源頼朝は、この時をのがさず、平氏をたおすためのたたかいを始めました。
範頼のりよりもたたかいに出ることになり、亀御前かめごぜんとのわかれのときがきたのです。「では、これでおわかれじゃ。」「わが君のいらっしゃる所、どこまでもおともいたしとうございます。」「つれてまいるわけにはいかぬ。行くさきは戦場せんじょうだ。平氏へいしの者たちを追いちらし、源氏げんじの名をあげねばならぬ大切なときじゃ。」
範頼は、平氏の目をのがれて石戸に来たときわたった川を、こんどはりっぱなよろいを着てわたり、いさましく戦場に向かいました。その後、亀御前は石戸の北にある父のやかたにうつり、範頼がたたかいに勝ちますようにとかみほとけにいのる日々を送っていました。
苦しく長いたたかいがつづきました。しかし、頼朝よりとも、範頼、義経よしつねのきょうだいは力を合わせて必死ひっしにたたかい、ついに平氏をほろぼしたのです。平氏とのたたかいに勝った頼朝は天下をおさめ、世の中は平和になりました。
石戸はさくらの花のきせつになりました。亀御前が待ちこがれた範頼との再会さいかいもかなうのです。ところが、弟の義経が兄の頼朝とあらそいころされるという悲しい事件じけんが起こったのです。それからしばらくして、こんどは、こともあろうに範頼が頼朝からあらぬうたがいをかけられ、伊豆いず修善寺しゅぜんじにおしこめられて、とらわれの身となってしまいました。この悲しい知らせは、まもなく亀御前かめごぜんの耳に入りました。
とつぜんのことにおどろいた亀御前は、範頼のりよりの身を心配して、頼朝よりとも大軍たいぐんに勝てるはずがないと知りながらも、おっとをすくうため薙刀なぎなたを取り、馬に乗って助けに向かいました。出発してまもなく、高尾にさしかかったときのことです。一人の使者が範頼の死をつげたのです。兄頼朝にころされたようすを聞いた亀御前は、今までのはりつめていた心が急にゆるみ、悲しみのあまりその場になきふしてしまいました。
それからいく時間たったことでしょう。はやい雲の流れの中で、月はざわざわとはげしく波打つあし原をてらしていました。かつて範頼が石戸に来るときわたってきた川、たたかいに出るためにわたっていった川、その岸辺きしべに亀御前はじっと立ちつづけていました。「わずかな月日の間とはいえ本当にしあわせでした。」
なみだにくれる亀御前のむねの中は深い悲しみでいっぱいでした。亀御前には、何もかもすべてが暗く見えました。自分にできる最後さいごのつとめは、あの世にいってあいするおっとに再会さいかいすることだと思いまLた。
とつぜん、うずまく川の流れに黒いかげがすいこまれていきました。亀御前の立っていた岸辺には、薙刀だけが月にてらされてのこっていたのです。

(1)源頼朝(一一四七~一一九九)………源義朝みなもとのよしともの子。平氏へいしの力が弱まり始めたのを見ると、いち早く関東地方かんとうちほうをおさえ、西国さいごくには弟の範頼のりより義経よしつねをつかわして一一八五年、壇ノ浦だんのうら(山口県下関市しものせきし)で平氏へいしをほろぼした。一一九二年、鎌倉幕府かまくらばくふを開き一代目の将軍しょうぐんとなつた。
(2)源範頼(?~一一九三)………源義朝みなもとのよしともの子であり、頼朝よりとも義経よしつねとは母のちがうきょうだい。静岡県しずおか蒲御厨かばのみくりやで生まれたと伝える。そこで蒲冠者かばのかじゃ蒲殿かばどのとよばれた。兄の頼朝に代わって平氏をうつたたかいを指揮しきし、鎌倉幕府かまくらばくふ成立せいりつさせた。しかし、ささいなことから頼朝にうたがわれ伊豆修善寺いずしゅぜんじ(静岡県しずおか)でころされたという。
(3)平清盛(一一一八~一一八一)………平安時代すえの平氏の大将たいしょう保元ほげん平治へいじらん源氏げんじをやぶり、いきおいをえて、太政大臣だいじょうだいじんという一番上の役につき貴族きぞくにかわって武士ぶしがせいじをにぎるもとをつくった。
(4)武蔵国……… 主に今の東京都・埼玉県さいたまけんで一部神奈川県かながわけんをふくむ。
(5)亀御前……… 伝説上でんせつじょうの人物。一説いっせつには、源 頼朝みなもとよりともの家来で、鴻巣・北本地方をおさめた武将ぶしょうである安達藤九郎盛長あだちとうくろうもりなが(一一三五~一二〇〇)のむすめといわれる。また、源 範頼みなもとののりよりのむすめともつたえられている。
(6)源義経(一一五九~一一八九)………小さいときの名を牛若丸うしわかまるといった。武勇ぶゆうにすぐれ、平氏へいしをたおすのにてがらがあったが、兄の頼朝よりともににくまれ、のちに平泉ひらいずみ(岩手県)で自殺じさつした。
(7)薙刀………長いえの先にをつけたむかしの武器ぶき。人や馬をなぎはらうのに用いた。

【北本さんぽでの紹介】

北本市と源範頼(みなもとの のりより)


<< 前のページに戻る