逆さ椿
武士たちがたたかいに明けくれていた
永禄六年(一五六三)二月のことです。
越後国(
新潟県)の
武将上杉謙信は、
甲斐国(
山梨県)の
武田信玄や
相模国(
神奈川県)の
北条氏康にせめられた
松山城(吉見町)をすくうためはるばる山をこえてやってきました。
上杉軍は、武田・北条軍とのたたかいを前にして、一時荒井の中岡に
陣地をかまえました。
数千人をこす武士たちがやってきました。どなり声のようなめいれいがとびかいます。武士たちはよろいをガチャガチャさせながらあわただしくかけ回っています。くいを打ちこみ陣地をかこいます。馬を集めておいた馬場では、馬がいさみたって、いなないています。謙信のいる
本陣や武将の陣には
幕がはりめぐらされていました。
旗差物がひらめいています。ときおり、やりのほ先に日の光があたり、きらきらとかがやきます。夕やみが近づくころになると、
炊事をするけむりがあちこちからたちのぼり、
陣地をつつみました。
ところが、
謙信は、とつぜん
作戦をかえ、
私市城(
騎西町)をせめるために、この地をさっていきました。
村にはふたたびしずけさがもどり数年たちました。その後、
上杉軍がさった陣地のあとに、まことにみごとな一本の
椿の木がおいしげり、まっ白な花をさかせていました。上杉軍の
武士たちは炊事をするために、三本のくいを組んでなべをつるす、かんたんなかまどを作りました。この椿は、そのかまどのくいの一本が根づいたものだといわれています。かまどにまつる
神様を
三宝荒神ということから人びとはその椿を
三神椿とよぶようになりました。またべつに、上杉軍ののこしたくいですし、
越後国の雪の白さにもまさる
銀白色のみごとな花をさかせたので、
越後銀ともいわれていました。でも土地の人たちは、この椿を
逆さ
椿とよぶことが多かったそうです。この椿の木は、えだがみきから下に向かってのびていたので、えだがさかさについているように見えたからです。
この
椿は、今から五、六〇年前ころまで、荒井中岡の畑の中にありました。みきは太く一部はうろになっていましたが、毎年美しい花をさかせていたそうです。今では、そのあとに
記念の石が立てられています。
注
(1)上杉謙信(一五三〇~一五七八)………
越後国の
戦国時代の
武将。
関束管領としてしばしば関東へせめこんできたが、
武田信玄との五回にわたる
信濃国川中島(長野県)の
合戦が有名。
(2)旗差物………
戦場で
目印として
背中につけた
小旗、または作り物。
(3)私市城(騎西城)………今の
騎西町根古屋にあった
戦国時代の
城。
(4)うろ………内部がからになっている所。