北本のむかしばなし 歴史や昔のようすをつたえる話

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ほり内館うちやかた

「石戸の蒲桜かばざくら」で知られる東光寺とうこうじのあたりは、「ほりうち」といわれています。
ここは、むかし、武士ぶしやかたをたてて住んでいた所です。武士の屋敷やしきや物見やぐら、倉庫そうこ、馬小屋などの建物たてものが、土塁どるいほりにかこまれた中にありました。 それで堀ノ内とよばれていました。
堀の外には、家来けらいの家、武士の田畑とそれをたがやす農民のうみんの家などがありました。また、武士の一族がまつる氏神様うじがみさま祖先そせんのおはかもありました。
堀ノ内館の広さや形については、石戸神社のあたりにのこる土塁や堀あとと、最近さいきんのちょうさによってだんだんわかってきました。それらによると館は、まん中に四角のくるわがおかれ、まわりを二重の堀が取りまいていました。全体は、ちょうど三角定規さんかくじょうぎの角をまるくけずりとった形をしています。 広さはおよそ十一万平方メートルといいます。石戸宿の子ども公園のやく四ばい ほどの広さです。
ここに武士が住んでいたのは、今から九〇〇年前ごろから、六〇〇年くらい前ごろまでのおよそ三〇〇年間のことと考えられています。
館に最初さいしょに住んだ武士は、 蒲冠者範頼かばのかじゃのりよりとも石戸左衛門尉いしとさえもんのじょうともいわれていますが、はっきりはしません。 ただし、近くには範頼に関係かんけい する史跡しせき文化財ぶんかざいの多いのが注目されます。
荒川あらかわをこえた西の吉見町には、範頼のりよりゆかりの息障院そくしょういんがあり、近くの御所ごしょ は、範頼がおさないころ、住んだ所とつたえられています。また北の鴻巣市 糠田ぬかた放光寺ほうこうじには、範頼のしゅうとといわれている安達藤九郎盛長あだちとうくろうもりなが木像もくぞうがのこされています。南の桶川市川田谷かわたや普門寺ふもんじには、かって寺宝じほうとして範頼のドクロがまつられていたとつたえられています。

(1)堀ノ内………平安~戦国時代せんごくじだいぐらいまでの武士ぶし屋敷やしきやかたあとをいう。たけ(竹)ノうちも同じ意味であり、げんざいも地名としてのこるものが多い。
(2)土塁………土をもって土手状どてじょうにし、たたかいのときの守りやこうげきに使った。
(3)くるわ………しろやとりでなど一定の土地のまわりにきずいた土や石のかこい。
(4)石戸左衛門尉(鎌倉時代かまくらじだい)………鎌倉幕府かまくらばくふにつかえていた武士ぶし。北本市石戸宿ほり内館周辺うちやかたしゅうへん支配しはいしていたとつたえる。
(5)安達藤九郎盛長(一一三五~一ニ〇〇)………鎌倉時代かまくらじだい頼朝よりともにしたがった武将ぶしょう。鴻巣市糠田ぬかた放光寺ほうこうじ盛長像もりながぞうとつたえる木像もくぞうがあることから、そこをやかたとするせつがある。

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