北本のむかしばなし 歴史や昔のようすをつたえる話
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高尾タンス
高尾の丸山 ・烏 の木・谷足 にかけて、箱屋 や箱屋んち、とよばれる家がたくさんあります。箱屋とはタンスを作る職人 のことです。昭和三十年代のはじめころまで、高尾の多くの農家が、桐 のタンス作りをしていました。
職人たちは、夏から秋にかけては、もっぱら畑仕事にはげみます。 夏の作物のしゅうかくが終わり、冬の作物の麦まきが終わる十一月ごろになると、外の仕事はよく年の五月ごろまで、ひと休みです。職人たちはこの期間を利用 してタンスを作りました。
高尾の人たちが、タンス作りをしようと考えたのはなぜでしょうか。農業は、日照 りや水害 などで安定しなかったため。農業がひまになる冬の間にも、何かの仕事をしたいと考えたこと。タンスのざいりょうである桐 にめぐまれていたこと。作ったタンスを、高尾河岸 から、舟 を使って江戸 へたやすく運べたこと、などが主な理由と考えられています。
高尾のタンス作りは、江戸時代の終わりごろに始まりました。もっともさかんに作られたのは、明治 のはじめから大正年間にかけてでした。売り先の多くは東京でした。高尾河岸から舟 で出荷 されていましたが、舟運 がさびれてくると、タンスせんもんの「運び屋さん」が、荷車にいくつものタンスを山のようにつんで、中山道 を日本橋 の問屋 まで運んでいきました。こうして「高尾タンス」は一流品 として知られ、三越百貨店 などでも売られていました。
しかし、大正十二年の関東大震災 のあと、当時はやりの「東京タンス」におされ、かつての人気をうしなってしまいました。その後、高尾は一地方のタンス産地 となってしまい、昭和六十三年には、一軒 だけになってしまいました。
むかしは、女の子が生まれると桐の木を植えたものだといいます。むすめがおよめに行くとき、その木でタンスを作って持たせてやるのです。その桐の木も今では少なくなってきました。
高尾の
高尾の人たちが、タンス作りをしようと考えたのはなぜでしょうか。農業は、日
高尾のタンス作りは、江戸時代の終わりごろに始まりました。もっともさかんに作られたのは、
むかしは、女の子が生まれると桐の木を植えたものだといいます。むすめがおよめに行くとき、その木でタンスを作って持たせてやるのです。その桐の木も今では少なくなってきました。