鎌倉街道と石戸宿
北本市は、古くは
荒川、
江川、
赤堀川などの川ぞいにひらけました。なかでも、石戸宿を中心とした荒川ぞいの開発は早かったようです。
その荒川にそって
鎌倉街道といわれる古い道が、南北に通っています。鎌倉街道は、鎌倉時代に
武士たちが「いざ鎌倉」という時に、鎌倉への行き来に使った道をいいます。ただし、鎌倉街道というよび名は、
江戸時代に入ってからのものです。古くは
群馬県や長野県に通ずる道を
上道、また、
宮城県 や青森県など東北方面に通ずる道を
中道・
下道とよんでいました。この三すじの大きな道は鎌倉に通じ、これに大小のえだ道がつづいていました。北本の荒川ぞいを通る鎌倉街道は、この中道のえだ道と考えられます。
この道は、中道から分かれて
与野市本町・・大宮市
植水を通ります。次いで荒川の左岸をさかのぼり、上尾市
平方・
畔吉、桶川市
川田谷をへて、
芭蕉句碑 の前を通り、石戸宿に入ります。今は
桜土手となっていますが、むかしは
低湿地をわたり、
小字横田市場へとつづきます。荒井の
須賀神社、高尾の
氷川神社をへて、「これより石と 舟とミち」の道しるべのある五さ
路に出ます。ここから北 へ向かい高尾の
小字中井にあるお
地蔵様の所で右の細い道に入り ます。しばらくいくと、道ばたに小さな
石仏があります。よくさがすと「
鉄砲宿 」という文字が見つかります。ここから先は鴻巣市で、むかしの鴻巣の
宿場につながっていました。鴻巣から先は、行田市、
群馬県館林市へとつづきます。
古い時代から
発展した
地域をむすんでいる
鎌倉街道にそった石戸は、街道の
歴史と同じように、長いゆたかな歴史をもっています。 市内にのこる、文字で書かれた一番古い
記録は、石戸宿堀ノ内にある鎌倉時代はじめの
貞永二年(一二三三)の
板石塔婆です。ここにはまた、鎌倉時代の
武士の
館がありました。館のあるじは
源範頼とも、
石戸氏ともつたえられています。
石戸氏がでてくる一番古い記録は、鎌倉時代のことを書いた書物の
寛元三年(一ニ四五)の
記述です。ここには、
石戸左衛門尉の名前が見えます。
戦国時代には、石戸は
岩槻城の
太田氏が
支配し、次いで
北条氏が支配しました。北条氏は、
本拠地の
小田原と石戸の間の荷物の
輸送方法についてめいれいをだしています。石戸には、
各地から人が行き
来し、また荷物が集まっては送り出された、
重要な場所でしたので、北条氏も大切な場所としてあつかっていました。
そして、
江戸時代のはじめには、近くの
高尾河岸が
幕府の
重要な
河岸にさだめられたので、石戸宿は高尾河岸とともに
水陸の交通のかなめとなっていました。
注
(1)「いざ鎌倉」………
鎌倉時代、
幕府に大事が起きたとき、すぐにかけつけめいれいにしたがうという主君と家来たちの
関係。
(2)板石塔婆………板じょうの石で作ったなくなった人をくようするための
塔婆。
埼玉県 には
板石塔婆が多数あり、北本にも
東光寺、
寿命院、
光蔵寺光蔵寺などにたくさんのこされている。