高尾河岸
高尾の
阿弥陀堂うらの急な坂道を下ると、
荒川が目の前に見えてきます。 このあたりは、
高尾河岸があった所です。
今は、近くに
数軒の家があるだけですが、
明治時代にはたくさんの
舟が出入りし、北本で、もっとも活気があった所でした。夕方になると、
河岸にいかりをおろした
舟のほ柱が、まるでならの木の林のように見えたといいます。家も七〇
戸ほどありました。舟の
積荷を入れる
倉、馬に荷を引かせる
運送屋や、
舟頭のとまる
宿、それにたばこ屋、ふろ屋、うどん屋、
料理屋までありました。むかしは、高尾の近くの村々では、「しょうがなかったら 高尾に行け」と言ったものでした。「しょうがない」というのは、「
塩がない」という意味と「仕事がなくてしょうがない(こまった)」という二つの意味をふくんでいました。くらしにひつような物がなくてこまったときには、塩でもなんでも高尾へ行けば用が足りる。仕事がないときでも、高尾へ行けば、なにかの仕事は見つかるものだ、ということだそうです。
高尾河岸は、
元禄三年(一六九〇)に
江戸幕府が定めた
荒川本流の四つの
河岸の一つでした。その後、
明治の終わりごろにかけておよそ三〇〇年間、荒川を上り下りする
舟でたいへんにぎわいました。明治時代までの荒川は、へびのように曲がりくねって流れていましたから、流れもゆるやかで水のりょうも多く、
高瀬舟のような大きな川舟の行き
来にもてきしていました。鉄道が開通するまで、
輸送はもっぱら荒川をりようして行われていました。
高尾や近くの村々でとれた
年貢米やダイズなどをはじめ、
忍藩の年貢米、鴻巣のお酒などが
河岸問屋の手によって舟につみこまれ、江戸の
蔵前河岸などに運ばれていきました。帰りには、塩などの生活用品や、畑のひりょうにする魚のあらなどをつんできました。河岸場あとの近くに住む田島さんが、前に
舟問屋をしていたおじいさんから聞いた話をしてくれました。「河岸が一番さかんだったころには、十一せきの舟を持っていて、一番大きな舟にはダイズが五〇〇ぴょうほどつめ、江戸蔵前との間を行き
来しました。忍藩の年貢米を運ぶときは、
朱の
丸をそめぬいた藩のはたを立てました。今、わたしの家に、このはたと、長さ一五メートルのほ柱、いかりがのこされています。行きは三~四日、帰りは四~五日から一週間くらいかかったそうです。川をさかのぼるとき、風が止まってしまうと舟は動きません。そこで、船頭たちは、竹をわった長いぼうのようなもので、
両岸から舟を引っぱって歩いたそうです。」
明治十六年に
高崎線が開通すると、
輸送の中心は鉄道にかわり、
高尾河岸 は、大正時代のはじめにはすがたを消しました。船頭さんたちは、きこりや屋根屋などの
職人になり、
宿屋や店の人たちはほとんどの人が農家になりました。
注
(1)河岸………人や荷物をあげおろしする
舟着場。
(2)高瀬舟………大きな
川舟で、
底があさくて平たい舟。
(3)年貢米………
江戸時代、
農民が
税としておさめた米。
(4)忍藩………げんざいの行田市を中心におかれた
藩。
(5)蔵前河岸………東京都
台東区。
江戸時代ここの
隅田川にそって、
幕府の
米蔵があった。米蔵の前の町というので
蔵前とよばれた。
(6)あら………
料理に使った後の魚の頭やほねなどをいう。
(7)舟問屋………
舟のつみ荷を取りあつかう大きな店。
【北本さんぽでの紹介】
高尾河岸とカワセミと