北本のむかしばなし 歴史や昔のようすをつたえる話

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石戸トマト

かつて、石戸は、「石戸トマト」の産地さんちとして、その名を全国に知られていました。
トマトの植えつけは、大正十四年には、すでに始まっていました。はじめは、たねを取ってアメリカへ輸出ゆしゅつするのが目的で、わたしたちが食べる果肉かにく の部分はすてていました。まだ、日本人の間では、トマトを食べる習慣しゅうかんが少なかったのです。それに、今のものとちがい、トマトどくとくのかおりが強く、人びとにきらわれていて、「きちげーなす」などと言われていたのです。
しかし、トマトの果肉をすててしまうのはなんとしてももったいないことです。石戸の人たちはなんとかならないものかと考え、今までに見たことも聞いたこともないトマトクリー厶とトマトケチャップを作ることを考えました。
昭和二年に、村うちの農家の七わりがさんせいして、石戸トマトクリー厶販売はんばい組合をつくりました。そして、トマト加工かこう工場か、西中学校から南西一〇〇メートルほどはなれたところにたてられました。ここは、トマト工場にかくことのできないたくさんの水がえられ、また大きな道に面していて交通のべんのよいところでした。

工場内には、直径ちょっけいニメートルあまりの真空しんくうがま、三つの殺菌さっきんがま、 二〇馬力の蒸気じょうきエンジン、一八馬力のモーターがすえつけられました。農村そのものであった石戸に、全国でも一番新しいせつびをもったトマト加工工場が生まれたのです。
きのうまで、くわをにぎっていた村びとだけで、経営けいえいをやろうというのですから、たいへんなことでした。一方、農家では、ポンテローザという指定品種ひんしゅを作るため、トマトさいばいの技術指導ぎじゅつしどうを受けたり、病害虫びょうがいちゅうのよぼうにつとめるなどいっしょうけんめいでした。
そのかいあって、昭和三年の博覧会はくらんかいでは、全国二七〇しゅの中で、優良国産賞ゆうりょうこくさんしょう表彰ひょうしょうを受け、日本一のひょうかを受けました。
けれども、しだいに工場の採算さいさんが合わなくなってきました。昭和十六年に 太平洋戦争たいへいようせんそうが始まり、砂糖さとうがふそくしてくると、決定的けっていてきなだげきを受けました。その後はトマトの代わりにスイカを加工かこうして、スイカ糖という糖分を取り出す工場にかわっていきました。しかし、戦争はしだいにはげしくなり、とうとう工場はへいさされてしまいました。

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