北本のむかしばなし 歴史や昔のようすをつたえる話

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石戸城いしとじょう

石戸のさくら土手のことをじょう谷堤やづつみといいます。この土手の南の一帯いったいは、かつて石戸城いしとじょうがあったところです。
石戸城は江戸城えどじょう川越城かわごえじょう岩槻城いわつきじょうをきずいた太田道灌おおたどうかんが父と力を合わせ、一四六〇年ごろつくったとつたえられています。荒川あらかわの東べりの台地の上にある長方形をしたしろです。てきのこうげきから守りやすい地形をたくみにえらんできずいています。
城の西がわは、やく一〇メートルもある急ながけになっています。その下を、荒川が今よりずっと城あと近くを流れていました。北から東にかけては、深い田やぬまになっていました。このあたりの田んぼは、人が入ると、たちまちこしのあたりまで、ぶくぶくもぐってしまう湿田しつでんでした。たたかいになっても、馬などではとてもわたれません。このようなことが、「一夜堤いちやづつみ」の伝説でんせつをのこすもとになったのでしょう。
石戸城のあとには、本丸ほんまるあととつたえられる一段いちだんと高くなったところや、てきのこうげきから城を守った土塁どるい、深いほりのあと、生活にかかせなかった井戸いどのあとなどがのこっています。西南せいなんには船着場ふなつきばのあとも見られます。
石戸城は、松山城まつやまじょうと岩槻城の中ほどにあって、これらの城どうしをむすふ大事な役割やくわりをもっていました。
そのため、大永だいえい五年(一五二五)には、岩槻城主いわつきじょうしゅ太田資頼おおたすけより北条氏綱ほうじょううじつなに城をせんりょうされると、一時石戸城いしとじょうにひなんしていました。また永禄えいろく六年(一五六三)には、越後国えちごのくに(新潟県にいがたけん)の上杉謙信うえすぎけんしん松山城まつやまじょうをすくうために、大軍たいぐんをひきいて石戸城まで来たこともあります。
石戸城を守る武将ぶしょうは、その時々に、石戸ふきんを支配しはいした勢力せいりょくとともにかわっていきました。しろがつくられた当時は扇 谷上杉氏おおぎがやつうえすぎし家臣かしんでしたが、やがて北条氏ほうじょうし関東かんとうの大部分を支配するようになると、その家臣が城主じょうしゅになりました。そして天正てんしょう十八年(一五九〇)の豊臣秀吉とよとみひでよし小田原おだわらぜめのときに、石戸城も北条氏とともにほろぼされ、その後、まもなくとりこわされました。

(1)太田道灌(一四三二~一四八六)………室町むろまち戦国時代せんごくじだい文武兼備ぶんぶけんび武将ぶしょう江戸えど川越かわごえ岩槻城いわつきじょうをきずき、関東かんとう第一のすぐれた武将と言われた。

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