鴻巣七騎
毎日のようにたたかいがつづいていたころのことです。そのころ、武蔵国 の城主は、そのほとんどが相模国小田原(神奈川県)の北条氏にぞくしていました。岩槻城の太田氏は、はじめ上杉氏にしたがっていましたが、のちには北条氏にぞくしました。
その太田氏につかえ、北本ふきんでいきおいをふるっていた七人の武士を鴻巣七騎といいます。市内では、北中丸の加藤修理亮、宮内の大島大膳亮、 深井の深井対馬守景吉らがそれです。
かれらは岩槻城主の家来でしたから、いざという時にはたたかいにでますが、ふだんは、あせを流して田畑をたがやし、原野をきりひらいておりました。
北中丸の加藤家には、今も館の構堀のあとがみられますし、宮内の大島家には、天正十八年(一五九〇)に豊臣方の武将から太田氏の家来であった大島大炊助 ほか四名にあてた手紙ものこされています。そこには、それぞれ武士をやめ、自分の生まれ育った土地に帰って農業をするようにと書かれています。また、古市場には戦国時代までさかのぼると思われる上手館もかくにんされています。
深井の深井対馬守景吉については、つぎのようにつたえられています。
景吉の祖先は上州白井(群馬県)の長尾氏の一族で、関東管領 上杉氏につかえていました。祖父景行の時に、鴻巣あたりをあたえられたといいます。 やがて岩槻城主の太田氏につかえ、岩槻大戸の合戦にさんかし、おしくもうち死にしてしまいました。
父景孝は、はじめ長尾六郎次郎と名乗っていましたが、深井村で生まれたので深井六郎次郎とあらため、深井氏を名乗りました。
景吉も、深井村で生まれ育ちました。その後、父と同じく太田氏の家来となり、いくつかのたたかいで大きなはたらきをしました。ところが、上総国三船山 (千葉県)の合戦で、主君の氏資がうち死にしてしまったのです。氏資につかえ、りっぱな武士として生きようとこころざしを立てていた景吉はぜつぼうしてしまいました。いろいろ考えたすえ、武士をやめて、深井村へもどることにしました。深井村へもどった景吉は、多くの原野を開たくしました。深井や宮地・生出塚(鴻巣市)などの三〇〇町(やく三〇〇ヘクタール)あまりの広い土地を、つぎつぎと田畑にかえていきました。
やがて、徳川家康が関東に入って来ると、景吉は家康にまねかれ、深井村でのはたらきぶりをたいへんほめられたといわれています。こうして景吉とその子孫は深井村の発展にたいへん力をつくしました。
深井の寿命院には、深井氏代々のはかがあり、今もそのおもかげをつたえています。
注
(1)構堀………てきの
進入をふせぐため、
城や
館などのまわりにほった
堀。
(2)豊臣秀吉………
安土桃山時代の
武将。(一五三六~一五九八)
尾張(今の
愛知県名古屋市内)に生まれる。一五九〇年に全国
統一を
達成し、
大阪城をきずいた。
(3)上手館………
鴻巣七騎関係の館と考えられるが、はっきりしたことはわからない。館の中心と思われる
郭や
土塁、堀の一部がのこる。古市場一丁目。
(4)関東管領………
室町幕府が
関東のせいじを
管理させるためつくった
役職で、
上杉氏が代々つとめた。