北本のむかしばなし 歴史や昔のようすをつたえる話

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村を開いた人たち

みなさんは、市内のある地域ちいきには新井あらい、ある地域には加藤かとうなどの同じせいの人たちがかなりかたまって住んでいることに気づいているでしょう。同じ姓ではたがいにふべんですから、「めえんち(前の家)」とか「あぶらやんち(油屋の家)」とか「いもちんち(分家)」とかとよびあっています。
これらの家々は、歴史れきしをさかのぼって考えると数軒すうけんの古い家にしぼられていきます。たいていの場合、はっきりした記録きろくがありませんから、げんざいのどの家とつながりがあるのかをたしかめることはこんなんです。しかし、その数軒の家の人たちこそ、村を開いた人たちなのです。
市内には村を開いたときの話が、いろいろつたえられています。
下石戸下や下石戸上にまたがるはらといわれたあたりには、鎌倉時代かまくらじだい伊豆いず (静岡県しずおかけん)から来た伊東刑部いとうぎょうぶという人が開たくをしたという言いつたえがあります。
高尾には新井という姓の家がたくさんあります。その始まりとなった家は、九州の豊後国ぶんごくのくに(大分県おおいたけん)からやってきた武士ぶしのきょうだいだといいます。下石戸下の諏訪すわの姓の家は、いつのころか、信州しんしゅう 諏訪(長野県)からうつり住んできたといいます。また、中山道なかせんどうの南のはずれあたりは「ふたつや(ニッ家)」といいますが、そこはたった二軒にけんの家が住みついて 村づくりを始めた所だといいます。
また、市域しいきの東には、戦国時代せんごくじだいに、「鴻巣七騎こうのすしちき 」とよばれる武士たちがいました。これらの人たちや、古くから住んでいた有力な家の人たちは、それぞれの村に農民のうみんとして住みつき、田畑を開こんして村を開くもとをつくりました。こうした人びとを草分け百姓びゃくしょうといいます。

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