北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士

沼田御厨地頭吉見賴綱
源頼朝の有力御家人であった畠山重忠は、数々の軍功により伊勢国沼田御厨を与えられていた。重忠 は、伊勢が遠隔地であったため代官真正を派遣して在地の支配に当たらせた。ところが文治三年(一一ハ七)六月、真正は非法を働き領家の伊勢外宮の神人(じにん)から訴えられた。信仰心の篤(あつ)い頼朝は、これを重忠の非違として所領沼田御厨の地を没収し、真正が奪った資財を本主員部(いなべ)大領家綱に返還させ、神宮領における武士の狼藉(ろうぜき)を禁止した。そして十月十三日に沼田御厨を吉見頼綱に与えたのである(古代・中世No.六四)。吉見頼綱はその苗字から、横見郡吉見郷出身の武蔵武士と思われるが、その出身は明らかでない。
当時の伊勢国は、平家没官領が多く存在し、また、頼朝と義経の対立もあって、鎌倉側の取締りが強化されるという状況下で、各地に地頭対本所・領家による所領紛争が見られた。
ところが文治五年七月十日には、今度は頼綱が重忠の代官と同様に「不義を巧み、民戸を追捕し、財宝を点在」したことにより御厨土民に訴えられ、頼朝の命によりその不法を停止された。義経追捕を目的とした守護・地頭の設置は、特に平家没官領において鎌倉御家人の地頭と、在地農民や本所・領家との間に対立を頻発させていたのである。沼田御厨の場合は伊勢大神宮領であったため、頼朝の対応には殊に厳しく素早いものがあった(古代・中世No.六五)。この後の吉見頼綱の御厨における動向については史料が乏しく明らかでない。たまたま頼朝の奥州征伐の直前で、その勝利祈祷を伊勢大神宮に依頼していたために、急速に裁許があったと史料には見えるが、重忠の時のように所領を召上げられ、謹慎を命ぜられた様子は見られない。何故なら直後の七月十九日の奥州出陣には、頼朝の御供輩として平賀義信・源範頼等をはじめ、幕下の主な武将一四四騎の中に、安達盛長•足立遠元らとともに吉見次郎頼綱の名が『吾妻鏡』に記されているからである。単に非拠停止にとどまったのであろう。
この後の頼綱の活曜については、頼朝の最初の上洛である建久元年(一一九〇)十一月には頼綱の名は見えないものの、二度目の上洛である建久六年三月(古代・中世No.七一)には、供の行列に連なっていることのみで以後『吾妻鏡』に頼綱や、その子孫と思われる者の名も見られない。
従って吉見次郎を名乗った頼綱は、その一代限りしか記録•伝承がなく、また「吉見系図」にも記戯されていない。吉見の地には曽祖母比企尼のゆかりをもって還俗(げんぞく)した範頼の子範円・源昭と、その子孫為頼らがいたことは明らかであるが、その範頼系吉見氏と吉見頼綱との関係は不明である。一説に頼綱を源範頼の子とする伝承もあるが、成人としての頼綱の活躍期が、範頼の活躍と同時期にあるため、父子とすると年齢的に整合せず、別流の吉見氏と考えた方がよい。ただし範頼の子孫が吉見に居住したが故に吉見氏を名乗ったように、吉見次郎頼綱も、どのような系統の者であれ吉見の地にいたことから吉見氏を名乗ったのであろう。

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