北本市史 通史編 古代・中世
第5章 関東府の支配と北本
第1節 建武新政と鎌倉府の成立
建武政権の成立と足利氏の武蔵掌握元弘(げんこう)三年(一三三三)五月二十二日、約一五〇年続いた鎌倉幕府は、足利千寿王(せんじゅおう)(のちの義詮(よしあきら))を奉じた新田義貞らにより滅ぼされた。
写真33 足利尊氏・直義所領目録 比志島文書
(東京大学史料編纂所所蔵 埼玉県県史編さん室提供)
また足利氏は鎌倉時代には実力者しかなれなかった武蔵・相模の国司に任じられたことで、北条氏の後継者となりうることを内外に示すとともに、東国での足利氏の政治的立場を飛曜的に高める結果となった(「公卿補任(くぎょうぶにん)」)。
さらに尊氏(初め高氏)は討幕の恩賞として、足立郡ほか一七国三〇か所、直義はーー国一五か所の所領を獲得した(古代・中世Noーー八)いずれも旧得宗領(とくそうりょう)であり、なかでも久良(くら)郡・沼浜(ぬはま)郷・懐島(ふところじま)は、鎌倉防衛上の重要拠点であり、足立郡赤塚郷は武蔵国支配の拠点であった。この時代の恩賞は、本人の申請に基づいて行われるのが普通であったことから、足利氏の狙いは、鎌倉を中心とする東国での実質的な支配権を確立し、同氏の安定強化を目指したものであったといえる。