北本市史 通史編 現代

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第1章 戦後復興期の北本

第2節 町村合併と三十年代の村政

1 町村合併をめぐる動き

強い北本中心志向
全県的な合併促進運動が行われるなかで、北本宿村においても昭和二十九年四月、村長伊藤亮賢を会長に、前村長二名、村議二十六名、区長四十九名、助役及び収入役を委員に、合併促進協議会を組織した(北本宿 六八四)。
同年五月八日、常任委員会(協議会委員のうち、二十名で構成)が開かれ、開会時間はわずか一時間余りであったが、そこで注目すべき意見が述べられ、また重要な決定がなされている。それらを抜粋(ばっすい)して次に示す(注、傍点筆者)。
○ 角田隆安より、鴻巣町を中心とした合併、または本村を中心とした合併を推進するか、何(いず)れかの線に向って進むべきかを決めて進むべきだ、と意見発表あり。
○ 田島忠夫より、国土建設計画によると将来五十粁以内を東京都に編入する案もあり、若し東京都へ編入される場合は住民の福利上、大いにプラスになるので、鴻巣町との合併は不利で、将来東京都への編入も考慮して本村を中心とした合併の線で進むべきだ、と意見発表あり。
○ 東京都編入も考慮して本村を中心とした合併に進んで行く事に決定す。
○ 常光村へ積極的に呼びかけ、出来得れば馬室村も入れて三か村が合併するよう進める。
○ 本会議終了後、渉外(しょうがい)委員が常光村へ挨拶(あいさつ)かたがた呼びかけに行く事に決定す。
以上の記録によれ.は、そこでは県試案(鴻巣をふくむ七か町村合併案)について、あまり検討された形跡(けいせき)がみられず、会議の一貫した流れは「北本中心」の考え方であったように思える。そのうえ常光村との合併が短時間で決定され、会議終了後早々に常光村への働きかけ、つまり合併のための行動を起こしたことになる。
そして、常任委員会における以上の合意は、合併促進協議会に諮(はか)られることもなく、そのまま合併の基本方針に変わる。それは、村長発議員及び区長宛の次の文害が示している(注、傍点筆者)。
去る五月八日、本村合併促進協議会常任委員会会議に於て、(中略)合併問題について委員各位と協議の結果、次のとおり本村の方針を決定いたしましたので、貴地区内に御周知下さると共に、該方針逹成のため御協力下さるよう御願い申しあけます。

一、本村の地理的条件を考慮して、本村を中心とした合併を促進する。
一、本村と他村との合併については、(中略)最初に合併可能なる隣接常光村と本村合併達成を促進し、他村へも呼びかける。
一、出来得れば馬室村全村との合併も進めて行くが、馬室村の一部本村への合併は避ける。
一、右渉外関係については村長、助役、正副議長、常任委員一名この任にあたり、尚(なお)状況により常任委員に協力を願う。
合併の基本方向がこれほど簡単に決定されたのは、おそらく世論の大勢も同じようなものだったからであろう。
では、県試案がほとんど問題にされず、北本中心・常光村合併へ進んだのは何故だろうか。常任委員会では、東京都編入を考慮した場合、鴻巣町との合併は不利になるという理由が述べられている。確かに当時、財界などから道州制が主張されていたから、もしそれが実現されるとすれば、埼玉県南は東京都へ編入されるだろう。できるだけ南に位置していればその可能性があると考えたのであろう。しかし巷間(こうかん)の流説(るせつ)が決定的な根拠になったとは考え難く、別の理由があったように思われる。それは何だろうか。
その第一の理由は、北本宿村の人口は一万人を超え、優に適正規模(八〇〇〇人)を超えていたこと、これが合併に対して消極的態度を生んだのであろう。そして第二の重要な理由は、北本宿村の都市的施設が貧弱(ひんじゃく)なため、鴻巣町とくらべて周辺を結節する機能が弱く、七か町村合併では鴻巣が中心になる。それを住民が日常生活を通して知っていたからであろう。

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